「ハッ、なんや、それ」 ひよ里の口から乾いた笑いが漏れる。精神的に追い詰められた者は、可笑しくも無いのに笑い声が出る事がある。ひよ里のソレもたぶん似たような状況なのだろう。 クスクスと啜り泣くように笑うひよ里を、傷ましげに真子は横目で見遣った。 「ずっと前から、ほんまは、好きやった。それこそ、こっちに来る前からお前のコトを好きやったんや」 「・・・・・・、」 「急にこんなん言われて、信じられへんのもわかる。せやけど、ほんまや」 うそだ、というように、ひよ里はかぶりを振った。 「・・・・・・嘘やない。ほんまや」 信じられるわけがなかった。 信じたいとも思わなかった。 真子の言う事がもし本当なら、あの時、あんなことを言われた自分はなんだったのか。どうしてあんなことを言われなければならなかったのか。この男のこの言葉をどこまで信用すればいいのか。どこまでが本当でどこからが嘘なのか。たんに自分はからかわれているだけなのか。 沼の底へと落ちていくような感覚。這い上がる気力もない。 ――――どうでもええ。 ピタリ、とひよ里の笑い声が止む。冷めた声が出た。 「・・・・・・同情か?」 「違う」 即座に否定する彼の言葉に、手放しで喜ぶほど子どもにもなれず、理解を示すことが出来るほど大人にもなれず。ぐちゃぐちゃの心は、真子の言葉を気休めと受け取った。 「さすがは隊長格やったお人は違いますなァ、お優しいことで」 「ひよ里」 「博愛精神いうやつですか? うちには真似できへんわ」 ひよ里の口からは自分を卑下し、真子を揶揄する言葉しか出てこない。 嘘だ。冗談だ。何を必死になってんのや? そう莫迦にすればいい。からかっただけやと、嘲笑えばいい。面倒な奴だと、手に負えないと思えばいい。呆れられて嫌われてしまえばきっと楽になる。そして思いっきり殴って、罵って、二人の間が終わってしまえばいい。 「いつまでもうちがあんたのこと好きでおるとでも、そんな調子のええこと思ってたんか?」 「・・・そんなことは、思ってへん」 たとえ真子の言葉が本当だったとして。本当だったとしても。 あの頃、無垢だった自分は、こんなにも汚れてしまった。 戻れない。 何も知らなかったあの頃には、戻れるはずがない。 「ひよ里、訊け」 真子は肩を乱暴に掴み、小さな身体を反転させる。身長差があるせいで屈んでひよ里の顔を覗き込む。 目が合うのが嫌で、ひよ里は顔をそむけた。 「うちは、あの頃と、違う」 あまりにも、違い過ぎる。 今だって、ついさっきまで、うちは――――。 「わかってるんやろ? うちが、」 「ひよ・・・・・・」 「うちが、喜助とね――――ンンッ」 押し付けるようにして口を塞がれた。逃れようと身体を動かすが、いつの間にかブロック塀に押しやられ逃げ場を完全に失った。ひよ里の腕は頭の上に、固定されるようにして塀に押さえつけられた。 初めてのくちづけは、血の味がした。 思いきり殴ったせいか真子の口内は切れたのだろう。歯をこじ開けて侵入してきた彼の舌先から鉄の味がした。頭の中の酸素を全部奪って行くような荒っぽいソレに目の前がくらりとする。耐える様にして目をつぶった。自分自身に起こっている現実に頭が付いていかない。逃げる舌を絡め取られると背中がゾクリと粟立った。 「……はぁっ」 くちゅくちゅと互いの唾液が絡む音がする。頭の中が融けるようなくちづけに身体から力が抜け、抗う事も出来なかった。 喜助とどれだけ肌を合わせても決して交わすことの無かったソレを、ひよ里はただ受け入れる。 塀に押さえつけていたひよ里の腕からゆっくりと手を離すと、真子はすべるように彼女の顔にその手を添えた。解放されたひよ里の手は重力に逆らわずパタリと真子の肩に落ちた。手に触れたシャツを握りしめる。 やめて。 でも、やめないで。 心も身体も頭の中も全てがバラバラだ。 「・・・・・・ふ、ぁっ」 ようやくくちづけから解放されると、酸素を求めるように荒い呼吸をした。顔を包んでいた真子の手は上下する丸い肩の上に置かれていた。 逃げだそうと思えばそれもできたが、ひよ里は逃げ出すことはしなかった。それでもささやかな抵抗として、もう一度真子の頬を力任せに引っ叩く。 悔しかった。 一瞬でも『もっとくちづけていて欲しい』、と思ってしまった自分が死ぬほど惨めで悔しかった。喉の奥が苦しい。目の前の男を直視できなくて俯いた。 「・・・・・うちが、喜助と寝てんの、知ってんねやろ?」 真子は答えない。ただ、僅かに頭が揺れたことはわかった。 鋭い彼が、気が付かないわけが無いだろう。 そういえば一度だけ、行くなと言われた事もあったか。関係無いと突っぱねれば、彼はすぐに引き下がった。知っていてそれ以上何も言わなかった。追いかけてもくれなかった。 どうして。どうして、今頃になって。 潰れそうな心が悲鳴を上げているようだった。 「ああ、せやったら、あれか? 自分の性欲処理する相手が居てへんから丁度ええとでも思うたか? 未だに未練たらしく自分のこと好いてそうなうちやったらお手軽やもんな」 自嘲したひよ里の言葉をすぐに真子は否定した。まるで心外だと言わんばかりに声を荒あげながら、傷ついたような顔をしていた。きっと今の自分は酷い顔をしているだろうとひよ里は思ったが構わず続けた。 「別にかまへんよ。痛い事さえせぇへんかったら。あんたの好きなように使うてくれてかまへんよ」 ほら、とわざと誘うように言って、真子の手を取り自分の胸元へと引き寄せる。 「ひよ里ッ!」 胸に触れる直前で真子は振り払うように手を引っ込めた。 何をしているのだろう、自分は。 喋れば喋るほど、何かをすればするほど、惨めになる。 「そうやなくて、ほんまにお前のコトが、好きなんや。ひよ里」 真子の優しい言葉に縋りつけば、きっとそこでハッピーエンドだろうに頑なにそれを拒むもう一人の自分が居る。ほだされるなと自戒しているみたいに。 「喜助とのこともなんとなくやけど知ってる。でも、もう我慢出来へんのや。お前が、他の男と――とか、考えるとどうにかなりそうや」 肩を抱く真子の手に力が入る。切羽詰まったような声だった。 「そんなん、知らんわ。一人でどうにかなっとけばええやろ」 「・・・・・・、」 「今頃になって、よう言えるわ。あつかましい。あんたが言うたんやで? うちのことはそういうふうに見れへんって」 「・・・そうや」 苦虫をかみつぶしたような顔で、真子は悔しそうにつぶやいた。 「うちを見るとあの時のコト思い出す言うて、あんたが言ったんやで? わかってんのか」 「せやったら、もう、うちにこないなことして関わるなっ!」 これ以上、踏みこんでこないで。心を乱さないで。 「いやや」 「なっ・・・・・・!」 「好きなんや」 いやだ。訊きたくない。 真子の言葉を拒絶するように、両手で耳を塞ぐ。 世界さえも拒絶するように、固く目をつぶる。 「お前が、好きなんや。ひよ里」 「訊きたない!」 それ以上、言わないで。何も言わないで。 「何度でも言うぞ、オレは、」 「シンジ!」 「お前が他の誰か喜助とか、好きでも、かまへん。オレはお前が好きや」 足場が崩れていくように、ひよ里はその場にしゃがみ込む。 つられるようにして真子もしゃがんだ。壊れ物を扱うみたいにそっと肩を抱く。 息のかかる距離に彼の顔がある。すぐそこに、彼が居る。欲しくて仕方が無かった人が、手に入る距離に居る。 でも。 「・・・・・・嫌いや」 出てきた言葉は、まるで正反対だった。 「・・・うん」 「うちは、嫌いや」 うそだ。 出鱈目だ。 本当は、好きで、大好きで、どうしようもないほど、大好きで。 でも同じくらい憎らしくて。 好きだ、と言う真子の言葉が嬉しくて、でも悲しくて。 今頃になってこんなことを言う真子は赦せなくて。 「あんたなんか、」 彼は、ずるい。簡単に人の心の中に入り込む。 そして醜いものを全部さらけ出させるんだ。 酷い男。 「あんたなんか、大嫌いや」 「ええよ。オレは、それでもええから。嫌いでええから」 「・・・きらい、や」 ひよ里の大きな瞳から大粒の涙が溢れ零れる。ぽたぽたと落ちていく。 困ったように真子は笑い、頬を伝う熱い涙を冷えた細い指先で丁寧にぬぐった。 「泣いたらあかんやん。説得力なくなってまうで」 「・・・っ、うる、さい」 力無く真子の頬を目掛けて振り下ろされた手は、彼にやすやすと摑まった。そのまま掌にくちづける。懇願するようなそれ。 堰を切ったように溢れる感情は涙と一緒に零れていく。 泣かんで、ひよ里――、真子の声がひどく優しかった。 ずっと、ずっと、求めていた。彼に好きになってもらえる事なんて無いと思っていても、諦める事が出来なかった。 そのくせ苦しくなって別の男に逃げて、誤魔化して、最低な女。最低なのに。 ひよ里は偽りを口にする。 好きだとはどうしても言えなくて、何度でも嫌いだと言った。 その度に真子は好きだと告げる。 嫌いの数だけ好きだと告げ、その度にくちづける。 もう二度と、間違えないように。 偽りしか咲かないそのくちびるに、何度でも愛を伝える為に。
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