浦原商店からの帰り道。 街灯が僅かに照らすだけの薄暗い道を、ひよ里は瞬歩も使うことなくダラダラと歩いていた。こんなにも足取りは重いのは、数時間前にした、寂しさを埋める行為の代償なのかもしれない。 仲間が居るあの場所へ帰ることが、後ろめたさも手伝ってかすごく億劫だった。それでもひよ里の帰る場所はあそこしかなく、他の選択肢も無い。野宿だって出来ないことは無いけれど、そんなことをすれば、羅武か、拳西あたりが烈火のごとく怒り狂い、リサは氷のように冷たく怒っているはずだ。ローズはきっと窘めるように叱って、ハッチは何も言わずにただ見守っているだろう。白は何事も無かったようにきっとお菓子を分けてくれる。 そして、あいつは・・・、真子はどうするだろう。 遠巻きにそれを眺め、呆れたようにひよ里を見るだろう。怒ったようなぶっきらぼうな言い方で、アホと一言だけ言って、軽く頭を小突いたらたぶんそれ以上は何も言わない。普段ベラベラと無駄に喋る分、心配した時や、本当に怒っている時の彼は、言葉が簡潔になり口数が少なくなるから。 しっかりと彼の態度が想像できる自分にうんざりした。ため息をひとつ落とす。 明日の朝までは真子には会いたくない。 あと数日で満月を迎える月は、薄雲が覆い隠していた。キラキラと瞬いているはずの星も、その雲の隙間から僅かに見える程度だ。 その辺を歩く野良猫の足音さえも聞こえてきそうなほど静かな住宅街を抜けると、民家はポツリポツリと在るだけ。仲間が居る住処まで後少だった。 無造作にジャージのポケットに両手を突っ込みながら歩くひよ里の目の前に、一匹の猫が横切る。あっ、と思って顔をあげてみると、暗闇の中に人が居る事がわかった。 目を凝らして誰かと確認する事をしなくても、ひよ里には誰かすぐにわかった。夜目が利くとかではなく、それはよく知っている気配だったからだ。 ――なんでここにおんねん。こいつ。 目の前に居るのは、今一番会いたくない奴だった。 ぎゅうっと喉の奥が詰まったような息苦しさを感じた。寒くも無いのに爪先から氷るように冷えていく。金縛りにあったように、その場で立ち尽くしたまま動けなかった。 すぐそこに居るだろう男も何も言わないし動きもしない。こちらの動向を伺っているようだった。 このまま何事も無かったように通り過ぎてしまえばいい。何やってんねん、こない遅くに散歩か?アホらし。とっとと帰って寝ろやと、いつも通りに憎まれ口の一つ二つ叩いて、その場を通り過ぎればいい。 「――――ッ」 思いきっては口を開けたものの、言葉にすることが出来なかった。情けない事に通り過ぎる事もできず、ひよ里は肝心な時に動かない自らの身体を呪った。 「ひよ里」 立ち尽くしたまま動けないでいる自分を呼ぶ声は、いつもの間延びした喋り方ではなく、真剣な時に出る低めの声だったが、ああ、やっぱり真子かと思った。 名前を呼ばれてもなんと返して言いかわからず、ひよ里は動きを止めたまま相手の様子を伺う。 「今帰りか?」 わかっているくせに。 何か一つ言われればその倍の言葉数で返すのがひよ里だが、何も喋らず頷く事もしなかった。真子は返事を待っているのか無言の時間が流れる。 何も言わないのか、と諦めにも似た雰囲気だけが伝わる。 何を言えというのか。 「喜助の所に行ってたんやろ?」 図星を差されて心臓が縮みあがる。握りしめた手の中はじっとりと汗をかいていた。 雲に隠れていた月が少しだけ顔をのぞかせて、うっすらと目の前の男を照らす。金髪のおかっぱ頭は星の少ない空の下でもよくわかる。 「義骸の調子見てもらうのにえらい時間がかかるんやな」 きっと何もかもわかっているのだろう、この男は。全てを承知したうえで訊いて来るのだから趣味が悪い。 握りしめていた手を一度緩めて、皮膚に爪が食い込む程に力を込めて握り直した。 「・・・・・・お前には、関係の無いことや」 出来るだけ平常心を装ったつもりだったけれど、喉が渇き張り付いたような声しか出なかった。感の良い彼の事だからひよ里の動揺を感じるには十分だっただろう。昔から真子は言葉と声色で、ひよ里が何を考えているのかある程度察してくれる所が合った。そこはいい所でもあり、今のような状況では悪いところでもある。 ザワザワと夜風が木の葉を揺らす。生温い空気が身体に纏わりついてくるようだった。 早く真子から離れよう。 早く仲間が居る場所へ戻って、この汚れた身体を洗ってしまおう。 これ以上目の前の男と対峙するのが嫌で、鉛のように重くなった脚を無理やり動かして通り過ぎようとした。いつもならそれで終わり。それ以上に何かを問われる事は無いし、引き留められる事も無い。今日もきっとそうだろうとひよ里は思っていた。 けれど、違った。 「待てや」 目の前を通り過ぎようとすると真子に腕を掴まれピンと引っ張られる格好になる。思わぬ出来事に目を剥いて振り返りながら真子の顔を見上げた。前髪が目元に影を落としていて表情が読めない。 何をすんねん! そう叫ぼうとして、大きく口を開けた。 「関係無いこと、無い」 すぐには理解できず、ひよ里は目を瞬かせた。 言葉の意図を探るように真子を凝視する。さっきは目元の影で良くはわからなかったが、よく見ればこの男は、あからさまに不機嫌な顔をしている。掴まれた腕にはしっかりと力が込められていて、多少の力では振り解けない。 「腕、離せや。真子」 「あかん」 「離せ、言うてんねん」 「離したら逃げていく気やろが。誰が離すかッ」 真子の理解できない言動と行動にさまざまな感情が渦巻いていく。 胸の中がザワザワする。 「どういう、つもりや?」 肌に触れる空気は穏やかなのに、ひよ里自身はまるで嵐の中心にでも居るかのようだった。 「聞こえへんかったか? どういうつもりや? って訊いてん」 「わかっとるわ」 「ほな、なんやねん。ちゃんと質問に答えや」 つい先ほどまで強張っていた身体は、喜びとも、怒りとも、憎しみとも言えない感情で身体を震わせている。胃の腑の底から湧き上がる激情を堪えるように歯噛みした。 真子は一度ひよ里から視線を外し何か思案した風だったが、すぐに彼女を見据え、そして言った。 「喜助の所には、行くな」 「ッッ!」 頬がカッと熱くなるのがわかった。一度頬に集まった熱は、すぐに顔から四肢へ、そしてその末端へと血液と一緒に流れていく。昂ぶる感情は抑えられない。真子に掴まれた腕を、そのまま乱暴に自分の方へと引き寄せる。彼が前のめりになった所を、掴まれていない反対側の手で力を込めて思いっきり引っ叩いた。バチン、と重い音が響く。 「――つぅっ」 小さく呻きながら真子は打たれた頬を手で押さえていた。非難めいた目で見降ろされても、突っぱねるようにひよ里は強く睨み返した。彼を打った手はジンジンと鈍い痛みを放つ。 「ホンマに義骸のメンテで行くんならええ。けど、それ以外で特に用が無いならもう行くな」 「お前、何様や。ふざけたこと抜かすのも大概にしとき」 「ふざけてへん。本気で言うてん」 「なおのコト性質が悪いわ。うちが何しようとお前には関係あらへんやろが」 真子は短いため息を吐いてから、もう一度言った。 「しゃーから、関係ある言うてるやろ」 ひよ里の顔に自嘲した歪んだ笑みが浮かぶ。口の端を釣り上げて、八重歯をのぞかせながら可笑しそうに鼻を鳴らした。 「ええか? 真子。お前とうちはただの仲間や。それ以上でも、それ以下でもないねん。そこを間違えたらあかん。あんたはな、うちを縛る権利も資格も無いねん」 頭の中は考えれば考えるほど混乱する。今頃になってそんなことを言いだした真子の事がわからない。どうして人の気持ちを引っ掻き廻すような事を言うのか。そっとしておいてほしい。面白半分で突かないでほしい。これ以上重荷になりたくない一心で仕舞い込んでいるのに。 真子に掴まれたままの腕が、痛い。まるで自分の心の中のようだとひよ里は思った。 「自分の男でもないヤツにこないな真似されんの、迷惑やねん」 いまだに彼に心は囚われたまま、軋むように痛む。 「わかったらもう放しぃ」 力任せに、腕を振って真子の手を振り払おうとしたが、更に力が込められ小さな努力も無駄になる。 「痛いっちゅーねん!真子!」 人目を気にせずにひよ里は大声を張り上げた。近所迷惑を考える余裕も無かった。 怯むことも、顔色一つ変えることなく、真子はひよ里を見降ろす。 「悪いけど、離す気ないで」 背筋が凍るような冷ややかな声だった。真子の真意がまるで掴めない。 「ッくそ…がっ!」 もう一度、真子の顔を殴るように叩いた。掌にもピリピリと痺れるような痛みと熱が走る。 今度こそ真子が怯んだ。 腕を掴んでいた手が僅かに緩むのがわかり、ひよ里は瞬時に腕を引き抜く。と、同時に力任せに真子を突き飛ばし、その場所から逃げだそうと、地面を蹴った――はずだった。気がついた時にはすでに背中から抱きすくめられる形で、ひよ里は羽交い絞めにされていた。 「放さなへん言うたやろ。大人しいにせぇ、ひよ里」 「するかボケ!離せ!気色悪いねん」 耳のすぐそばで鼓膜を震わせる男の声に心臓が早鐘をならす。身を捩り抵抗をするけれど、包まれるようにされている為に、その抵抗はあまり意味を成さなかった。サラサラの真子の髪が頬に当たる。背中から彼の熱が布の上から伝わる。 ダメだと思った。 これ以上、こんな風にされるのはダメだと、頭の中で警鈴が鳴る。 「人で遊ぶンもたいがいにしいや、真子」 低く凄むように言ったつもりが、情けないほど震えていた。精一杯の虚勢が崩れていく。 それもこれもこの男のせいであることが、ひよ里を苛立たせた。 「面白いか?うちがこうやって、動揺すんのみて、面白いんやろ」 「違う」 「じゃぁ、なんやねん!なんでこんなこと・・・・・・、」 「好きなんや!」 ひよ里が言いきる前に被せる様にして、真子は言った。 思わず息を吸い込むと、ヒュッと喉が鳴る。 絵具をぶちまけたような頭の中は、真子の言葉に真っ白に塗り潰された。彼の腕の中で暴れていたひよ里は、まるで時が止まったかのように、ピタリと動かなくなる。 それを目で見て確認した真子は、腕の中に居るひよ里をもう一度しっかりと抱きしめた。 「お前が好きなんや」 耳元で熱い息と一緒に確かに告げられた。訊き間違いではなかった。 一秒とも一分ともとれる時の流れの中で、走馬灯のようにこれまでのことが一気に駆け巡る。 真子に好きだと告げる前のこと。 それまでの楽しかった事、辛かった事。何も知らず少女のように胸をときめかせていた自分自身を思い出す。浅はかで滑稽な過去の自分は、ひよ里の胸をギリギリと締めあげる。 真子に好きだと告げた後のこと。 確かに彼は言った。そんな風には見る事が出来ないと。ひよ里を見ていたら『あの時のこと』を思い出すと。小さいままのひよ里を見ると、自分のせいかもしれないから、申し訳ないからと、彼は言ったのだ。 一度だってその時のことを忘れたことは無い。 それなのにこの男は忘れたのか。 あんなことを言っておいて、都合よく忘れてしまったのか。 → お題提供 ロメア 様 |