忘却の彼方 




 

水を張った小さい桶と濡らした手ぬぐいを手に持って真子は早足で戻った。その奥の襖を開けようとして、はたと手を止める。まだ、着替えてる最中かもしれないと思い「着替え終わったかァ?」と襖越しに中に居るひよ里に声を掛けた。

「終わってんやったらなんか言うてくれるかァ?」

 返事は返ってこない。

 まさか寝てもうたか? と首をひねり耳を澄ませてみると、鼻を啜る音と声を殺したような泣声がわずかに聞こえた。思わず焦る。

「ひよ里、泣いてんのか?」

 それにも返答は無く、真子は居てもたってもいられなくなって、すまんけど入るでと、襖を開ける。ひよ里は襖がある方に背を向けるような格好で布団に座ったまま前かがみになって肩を揺らしていた。何もつけていない白い肌が頼りない明かりに照らされていた。

「この、アホ!」

 手早く襖を閉め、畳みの上に乱暴に桶と手ぬぐいを置くと、ひよ里の元に駆け寄った。

「何してんねん。寝間着だしたってたやろ。はよ着な風邪ひくやろが」
 世話の焼けるガキやな、と、思わず口調が荒くなる。出来るだけ裸を見ないように目を背けながら、馴れた手つきで寝間着を広げひよ里の背中から覆うように掛けてやる。そこまでして、彼女が何をしていたのかやっと気がついた。

 直視していいかどうか迷ったが、一応着物を身体に掛けているから全部見える事は無いだろうと思い、すまん、と心の中で謝りつつと薄眼でほんの少しだけ覗きこむ。

ひよ里は泣きながら胸元や腹の辺りを自分の死覇装の上着を使って、ゴシゴシ擦っていた。ずっと擦り続けていたのだろう。白い胸元は擦り切れて赤くなっている。その赤くなってしまった場所の中程に周りよりも一層赤く楕円になった痕を見つけた。内出血の痕だった。。目を見開き息を呑む真子には、それがなんなのかすぐにわかった。布で隠しきれない痕がいくつも小さい身体に残っていた。誰がつけたのかなんて訊かずとも、考えずともわかった。

無意識のうちにギリっと奥歯を噛みしめる。

 内出血の痕を消そうとしてあんなに擦っているのか。そんな事をしたところで消えやしないものなのに。その姿があまりにも傷ましく胸が詰まる。

「痛なるからやめろ」

 背後から抱き締めるように腕をまわし、身体を擦るひよ里の細い手首を痛くないように細心の注意を払いながら掴み、動きを抑制する。

「放、せ…」涙声で言いながら、振り払おうとするひよ里をそのまま抱きしめる。真子の胸の中にすっぽりと収まる小さな彼女の身体はカタカタと震えていた。

「放したら、また今みたいなんするんやろ? せやったら放さへん」

 これ以上自分の身体に傷をつけるようなことをして欲しくない。けれどひよ里は苦しそうに、汚い、汚い。汚いから早く消さないと。と、何度もうわ言のように繰り返して腕を振り払おうとする。

「そんなこと、あらへん」

「汚い…、わ。こんな痕、」
「そんなことないちゅーねん。汚い事あらへん、って言うてんねやろ? それはただの内出血や」

 ひよ里の動きが止まった。

「内出血…」

「せや。数日もすれば消える。任務中にどこかしら怪我して帰って来るやろ? 切り傷やら、打ち身やらして。それと同しや。せやからすぐに消える」
 それに、擦るよりも冷やす方がええねんで、と付け加え止めるように促すと、涙で濡れた大きな瞳が真子を見上げた。
「せ、やけど、真子、」
 あの、身体を生き物が這ったようなあの感触も、ジリジリとした痛みも、全部覚えてて。怖くて、気持ちが悪くて、どうにかなりそうで。
「・・・いやや」

「そう、やな。…そうやな」

 つらいと、訴えるひよ里をぎゅっと強めに抱きしめた。どうしてやる事も出来なくて、気持ちを汲んでやる類の言葉しか浮かんでこなかった。自分が言った言葉の全てが、弱ってしまっているひよ里を傷つけてしまうのではないかと思った。落ちついてくれと、抱きしめる事しか出来ない。

 ――どうすれば、ええ。俺は、どうすれば…。

 そんなことばかりが頭をめぐるが、妙案が出てくるはずもない。

 畜生、と声に出さず腹の中で叫ぶ。この腕の中にいる子をここまで苦しめているあの男の顔を思い出し、腸が煮えくりかえった。今すぐにでも、あの男の元に戻って自分の刀で斬りつけてやりたいと思う衝動をギリギリと奥歯を噛みしめて耐える。

 どうすれば……。もう一度応えの出ない自問を唱えた時、ひよ里はおよそ感情がこもっていない声で呟くように言った。
「――忘れたい」
 えっ、となって思わず抱きしめていた腕の力を緩める。意味がわからず戸惑っていると、ひよ里はもう一度は確かに言った。
「忘れさせてや、真子」



 ひよ里自身、自分がどれだけ莫迦なことを言っているのはわかっていた。それでも忘れさせて欲しいと、あんたの手で忘れさせてくれと、真子の方を向いてこうべを垂れ懇願した。その瞳にたくさんの涙を浮かべ、頬を濡らし、震えながら。

「それ、どういう意味で言うてるか、自分、わかってんのか?」

 突然そんな事を言われ困惑している真子の目がとても悲しげで、ひよ里は直視できなくなる。わかってる、と目を背けて告げた。

「さっき怖い思いしたばかりやろがッ」

「どうせ、怖いなら、痛いなら、お前にされた方がええ」

「アホか! 自棄おこしてどないすんねんッ!」

 怒鳴られた。当たり前だとひよ里も思う。だけど、

「自棄なんかとちゃう」

「ひよ里、しっかりせぇ。そういうのはちゃんと好きなヤツとせなあかんのや。おまえかて、それくらいわかるやろ」
「せやけど・・・ッ」

 背けていた顔を掴まれ、正面を向かされ見据えられる。射抜くような真子の瞳。

 好きだ――と言いたかった。でも、言葉に出来ない。言葉にならない。あの男にあんなことをされかけて、迷惑をかけて。その上、そのことを忘れたくて目の前にいる真子に縋って、頼って、優しさに漬け込むような真似して、そのくせ好きだと思う、こんな浅ましい自分が、真子に受け入れられるなんて、思えなかった。

 ひよ里の手が、真子の襟元を弱々しく掴む。人のコト言えないな、と心の中で自嘲した。結局、あの男とたいして自分も変わらないのか。やり方が違うだけで、真子の気が惹きたいだけじゃないのか。ずるいのはあの男と一緒だ。
 だけど、どうすればいい?
 どうすれば、あの感触を、あの痛みを忘れられる?

 ねぇ、どうすれば――。
 考えれば考えるほど出口の見えない迷路の中を彷徨っているような感覚になった。


「……、ひよ里」

 見据えていた目を閉じ、真子はため息を大きくつく。何度諌めてもひよ里は同じことの一点張りで、思いは変わらないようだった。目を開けて今一度ひよ里をしっかりと見据える。

「ほんまに、俺でええんやな?」

 確認をするように訊かれ、ひよ里はそれに頷いて応える。

「・・・お前なら、ええ」

 わかった、と諦めたように真子は頷き、ゆっくりとひよ里を抱きしめた。長いサラサラの髪が頬をかすめ、顔を埋めた首筋からさっき嗅いだ寝間着と同じ優しい匂いがした。

「俺、優しゅうに出来へんで?」

 優しくなんて、しなくていい。

ひどくしてくれたって構わない。無茶なお願いごとをしているのは自分だ。
「ほんまは俺、お前にも腹立ってん。もうええとか、言うたけど」

 怒られても無理は無いと思った。返す言葉も見つからず、黙ったままでいると真子は堰を切ったように強い口調で喋り始めた。

「なんであの男の部屋に行くねん。アイツとしゃべってんねんッ!! アホか、お前は!」

腕に力を入れ、さらにきつく抱きしめる。強く抱かれたかと思ったらすぐに肩を持たれ乱暴に引き離される。きちんと帯を締めていないせいで、すぐに寝間着は着崩れた。行燈の明かりが醜い痕がついた場所を照らす。今更ながらに恥ずかしくなって肌蹴た胸元を思わず隠そうとしたら、縛られた痕のついた手首を真子に強く掴まれた。前髪が目元を隠してしまっていて、表情は伺えない。

「しん…、いたッ」

 手首を強く握られると痛みが走り、ひよ里は顔を顰めた。

「なんで、身体、触らせてん」

 苦しそうな、言葉。どうして、そんなに。

「どうして、誰も呼ばへんかった? なんか叫べば誰か来たやろが。こないなことされへんかったやろ!」

 そんなことをすれば、大騒ぎになる。迷惑がよけいにかかる。

「騒ぎになったってかまへんわ。お前にこんな目合わせなあかんくらいなら、その方がましや」

 こんな痕つけられて、乱暴なことされて、と真子顔を苦々しく歪める。

「いっこ、言うとくわ」

 ふいに手首を握る力が弱まった。

「どうせお前のことやから、俺んこと利用してもうたとか、思うてんやろうけど、ちゃうで」

 囁くようにして言われた。


「好きや」


 その言葉に、心臓がドクンと高鳴る。嬉しくて、どうしようもなく嬉しくて。手放しで喜びたいのに、躊躇してしまう。

「お前は、どうおもてんのか知らんけど、俺はお前が好きや。ほんで、ずっとこうたいと思ってた」

 せやから、抱く。

「俺の意志でや」

「しん、じ…」
 やっとの思いで絞り出した声は上擦ってしまう。信じられないような気持だった。

「俺の意志で、することや。しゃーから、利用したとか、変な事考えんな。ええな?」

 優しい言葉に頷く。

「ほな、つらいけど、言えるか?」
 真子が何を言っているのかいまいちわからなかった。不思議に思ってずっと顔を見ていると、

「アイツがしたこと、全部俺がやり直したる」