忘却の彼方 7




真子はひよ里を抱きかかえたまま隊主室の奥にある自室に戻り、自分が寝るために敷いてあった布団の上にゆっくりと横たえた。枕元に置いてあった行燈の明かりにひよ里の顔が照らされる。叩かれたのか頬が赤くなっていて、口の端には血が滲んでいた。もしかしたら口の中も切れているのかもしれない。その他にも所々かすり傷のようなものもある。手首を括っていた死覇装の布は解いてやった。布が当たっていた部分が紅く擦れくっきりと痕になっている。痛々しくて見ていられないほどだった。あちこちについた傷を見て、どうして早く気付いてやれなかったのだろうかと真子は不甲斐無い自分を責める。爪が食い込むほど強く握りこぶしを作り、行き場のない怒りを抑えるのに必死だった。

人形のような虚ろな瞳をしたひよ里は、真子を見上げ、ごめんな、と消え入る声で言う。いつも罵詈雑言を吐きながら真子を蹴り倒してくるような、やんちゃなあの力強さが今のひよ里にはなかった。どれだけ彼女がショックを受けているのかよくわかる。

「あほか。なに謝ってん」

「せやって……ッ」

「そんなん、もうええわ」
 確かに言っていたが、これを予想しての事ではない。真子が危惧していたのはまったく別の事で、今回のことは想像外のことだった。とはいえ、女の子がこんな遅い時間に男の部屋へ行くというのはやはり不用心すぎるとは思う。

しかし、
「なんか用が無かったらやろ? お前が、こない遅い時間に男の部屋に行かんことくらいわかっとる。なんか用があったんやろ?」

 そうだ。彼女だって何かなければこんな浅はかな行動はとらないだろう。ひよ里が惣右介の元に訪れた理由を知らない真子はそう考えた。
「怖い思いさせてもうたな」
 早く気付いてやれなくて、と、すまなさそうに頭を撫でられ、ひよ里は言葉が紡げない。仕方なく頭をわずかに振って、違うと意志表示する。口を開けば情けない言葉しか出て来ない気がして、どうしたらいいかわからなくなり身体をぎゅっとまるめて縮こまる格好をとった。丸みのある小さい肩を震わせて、泣く事を耐えているようなひよ里の姿は、真子の胸を苦しくさせる。掛けてやる適当な言葉が見つからず黙ったまま、まるめた小さい背中を擦ってやることしか出来なかった。

「今日、オレんとこ泊ってけ」

 長い沈黙の後に、真子がポツリと零した。

ひよ里はびくりと震えて身体を強張らせ、視線だけを真子に向ける。無理も無いことかもしれない。あんなことの後に、男の部屋に泊っていけと言っているのだ。それでも真子には一人で帰し、あの広い部屋に独りだけでひよ里を寝かせる事が、どうしても出来なかった。

「お前が怖がるようなこと、なんもせぇへん。ここでお前は寝とけばええから」

 な、と優しく諭すように話しかける。

「喜助には明日、俺から言うとく」

「……喜助には、リサんとこ行く言うて来てん」

「アホ。その顔で帰ってリサんとこ言うたって信じられへんわ」

 そんなに酷い顔をしているのかと、ひよ里はまたちぢこまる。その様子をみて真子は顔を顰め、どうするべきかと思案を巡らせた。ひよ里がイヤだというなら、無理強いは出来いし、リサか白の所にでも泊めさせるか。でも、この顔の傷をどう説明すればいいのか。赤くなった頬を見ながら考えるが、いい案は出て来ない。
 とりあえず、

「そのほっぺた、冷やさな明日腫れるな。冷やすもん取ってくるわ」

 ポンポンと頭を軽くなでてから、膝をついて立ち上がろうとした。反射的にひよ里の手が真子の手に伸び、小さな手が触れる。とても冷たかった。何も言わずにその手を握りしめてやると、迷子の子どもみたいな必死な目で見られた。この子は、こんな顔をする子じゃないのに……と思う。

「どこにも行かへん。怖い事もせぇへん、な?」

 片手を握る小さな手の上に、自由のきくもう片方の手を乗せて優しくなだめるように擦る。出来るだけ落ちつかせるように、優しい声で言う。

「せやから、俺んとこ泊っていき、ええな?」

 こくりと頷くひよ里に、ええ子やと言ってやりもう一度布団に寝かせる。また掛けてやっていた羽織が崩れたので、それも一緒に直してやった。大人しくそれに従うひよ里に、息を一つくと、このままで寝かせられないなと考えて、自室の奥から寝間着を手に持ってやってきた。

「これ、俺のやから、お前にはでか過ぎるやろうけど、その格好でいるよりましやろ。これに着替え」

 そっと枕元にその寝間着を置いてやる。

「これから、そのほっぺた冷やすもん用意してくるさかい、その間に着替えや」

 真子は熱を持ったひよ里の頬をふわりと撫でると、寝間着と一緒に持ってきていた手ぬぐいを片手に持って、すぐ戻るとだけ言って出て行った。

 

 部屋から遠ざかっていく真子の足音を確認すると、もそもそとひよ里は手を動かして、枕元に置いてくれた寝間着を手に取った。手ぬぐいと同様に綺麗に畳まれており、彼の几帳面さが伺える。こういうことに無頓着そうなのに意外だなと、ぼんやりと思った。鼻の下にソレを持っていきスンスンと匂いを嗅ぐと、晴れた日に干されたのであろう、おおひさまの匂いと、それに混じって微かに彼の匂いがした。

 大きく息を吸って吐いた。

 何度かそれを繰り返すとようやく落ち着いて、用意してくれた寝間着に着替えようとゆるゆると起き上がる。真子が掛けてくれた羽織物が膝の上にぱさりとずれ落ちた。留めるものが無い死覇装の上着は相変わらず肌蹴たままで、枕元に置いてある明かりに照らされて自分の身体を改めて見る事が出来た。
「―――っ!」
 見なければよかったと自分の身体の有り様を見てすぐに後悔した。

身体につけられた紅い痕は無数に散らばっていて、醜くて汚かった。さっきまで何をされていたのか突きつけられたようなものだった。見ないようにと、膝の上にある布で隠そうとするが、ガクガクと身体が小刻みに震えだして上手く隠せない。冷たいのか熱いのかわからない汗が血でも吐くように身体中から出てくる。厭でも蘇る、自分の身に起こった出来事。

 壊れてしまったモノを見るような、冷たい瞳。歪んだ笑い顔。冷徹な声。気持ち悪い舌の感触。焼けるようなジリジリとした痛み。

 

気持ち、悪い。
「―――ウッ―――ッ」

 胃の中が焼ける様に熱くなる。ドロドロと熱を持った溶岩のようなモノが登ってくるような吐き気と共に先ほど収まった涙が一気に込み上げてきた。
 汚い、汚い、汚い―――!
 身体についた醜い痕をどうにか消そうとゴシゴシと力任せに手で擦る。消えない。消せない。ただ、擦れて赤くなるだけ。
 穢い、穢い、穢い―――!
 ぼたぼたと涙が落ち、白い布団をひよ里の肌や死覇装を濡らす。
「…いやァ…ッ」
 嗚咽が漏れる。押し付けられたあの感触を拭い去るように己の口をきつく擦り上げる。それでもやっぱり消えない。

 もう一度吐き気に襲われた。いっそ吐いてしまえば楽になるだろうに、それも叶わない。

 頭の中は玩具箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃだった。泣き叫びたくなるのを必死で我慢する。

けれど、それでも堪え切れず、崩れ落ちるようにして声を殺して泣いた。