忘却の彼方 6






「……惣右介、お前、何してんねんッ」

ようやく喉から絞り出した音は、怒りで震えたものだった。

ひよ里の霊圧がどうしてだか惣右介の部屋からするものだから来てみれば、想像を絶する事態が目の前に広がっていた。真子は自分の目を疑った。

 部屋の中は明かりも付いておらず真っ暗で、小窓の木の格子の隙間から月の明かりがわずかながらに零れているのみ。それでも障子を開けたので月夜の薄明りで部屋の様子をわずかながらも伺う事が出来る。ひよ里の為に出されていたであろう座布団は、部屋の左隅に無造作に放置されていた。部屋の中心に目をやれば、お茶受けに出されていたと思われる大福が口をつけられる事も無く畳の上に転がり、その周りの白い粉も飛び散っていた。お茶も零れ畳に染みをつけている。それだけでここで何があったか想像が出来た。

 まずいと思い、すぐに障子を閉めて、目だけを動かして右の部屋の隅に向ける。小さい死覇装の袴が、くしゃくしゃな状態で落ちていた。
 ――なんやねん、これ。

 ここで何が起こっていたのか、何が今起きているのかはすぐに想像できる。腹の底から込み上げてくる怒りをギリギリと歯を食いしばりながら耐える。

「惣右介、」

 自分の副官が、藍染惣右介が、大切だと思っている女の子を組み敷いた。その奥には「どうして来たのか」とでも問いたげな表情をしたひよ里が居た。強気な表情とは裏腹に、瞳の色だけは恐怖に染まっていた。

「ひよ里から、離れろや」

 喉に張り付いたような乾いた声をやっと出す。覆いかぶさっていた男がゆっくりと身体を起こす。苛立ってせかす様に、

「はよ離れいうとんねん!」

声を荒げた。そんな真子の様子がおかしいのか、クスクスとおよそ副隊長がするような笑い方ではなかった。そんな質の悪い笑みを浮かべながら真子の方に身体を向ける。ほんの少しだけ彼女から惣右介が離れた。

「何が、おかしいんや」

「無粋な真似をされるのですね」

 惣右介の態度に余計に腹が立ち詰め寄ろうとした瞬間に、視界の隅にひよ里の手が白い布によって締められている様子が映った。上着も肌蹴ていて、白い色をした華奢な肩も、小さな胸のふくらみも、脚もさらけ出されている。

「――――ッ!」

 あまりの状況に言葉にすることが出来なかった。頭部をガンと殴られたような衝撃が体を突き抜ける。顔が歪んだ。くそがっと吐き捨てるように真子は言った。信じられないという気持と、惣右介への憎悪とも呼べるような感情が腹のふつふつと沸騰する。

「お前、こいつに何してんねん」

 肩にかけていた羽織物をひよ里の身体を隠す様に掛けたあと、惣右介に向き直る。その場に座ったまま不敵な笑みを浮かべて見上げる惣右介の胸座を掴み上げ、勢いに任せて壁に鈍い音をさせ押さえつけた。抵抗はされなかった。

「お前、こいつに、こないな事をしてええ思ってんのか?」

 惣右介は真子をじっと見据えたまま何も答えない。

「なんとか言えや、惣右介ッ!」

 もう一度力任せにドンと壁に胸座を掴んだまま打ちつける。

「言えいうとんじゃッ!!! そう―――」

「真子!!!

 ひよ里の悲鳴にも似た声に言葉を遮られた。身体をよじり、自由の効かない腕で肘をどうにか付いて身体をわずかに起こして必死な面持ちで真子をみていた。惣右介の胸座を掴んだまま、ひよ里の方をみる。

「真子、ええから…」

 さっきとは打って変わって消えそうな声で、まるで真子に懇願するようにひよ里は訴える。

「何が、ええんや」

「うちは、平気やねん」

「んなわけあるか、ボケ! こない惨いめにおうて」

「せやから、同じこと何べんも言わせんな。ええ言うてん、真子。こんなん屁でもあらへんわ」

 そんなわけ、ないやろ。

「なんでもない言うてん。真子、頼むから。そんなんよりも此処から、はよ出たいねん、ウチ…」

「ひよ里…」

 それでも惣右介から手を放そうとしない真子に向かい、ひよ里は一度大きく息を吐いてから、声色こそ弱々しかったが意志のこもった口調で言った。

「よう考えや。此処、お前んとこの隊舎やろが。事が大きくなったらどないする気や」

「―――――ッ!」

 こんな状況に置かれ、冷静だったのはひよ里の方だった。

落胆しながらも真子は「…わかった」、と小さく応え、惣右介を掴んでいた手の力をゆっくりと緩める。そのままゆらりと立ち上がり袴を拾い上げ、ひよ里の元にもう一度しゃがみ込みんだ。彼女を覗き込むと、顔をそむけて目を合わせようとはしなかった。
 無理に起き上がろうとしたせいで、羽織物でせっかく隠した胸元がまた肌蹴ていた。真子は、堪忍な、と労るように一言だけ呟いてその胸元をもう一度丁寧に羽織物で隠し、背中と膝の裏に腕を静かに差し入れ、ゆっくりと抱き起こした。小さな軽い身体が小刻みに震えていた。あの普段の力強さがどこからも感じられず痛々しさが増す。真子はたまらず自分の身体の方へ引き寄せる様にきつく抱きしめた。



 惣右介はその二人の様子を無表情で無言のまま眺めていた。真子に襟元を掴まれ着崩れてしまっていたが、それも直すこともせず、ただ、じっと眺めていた。

 絶対に惣右介には向けることのない愛おしいものを見る瞳。壊れ物を扱うように繊細に抱きしめる腕。それを抱きとめる胸。真子のひとつひとつの動きを目が追った。

 惣右介に向けるのは、いつも背中だけだった。惣右介よりも身長が低い真子は猫背のせいでさらに低くなる。金色の絹糸のような長い髪を風に靡かせ、隊長羽織を翻しながら歩く後ろ姿だけだった。目の前を歩く真子は決して惣右介の方を向いて喋ろうとはしなかった。

真子との間には壊れる事のない壁が存在している。

当たり前だった。真子は惣右介を警戒している。そして、監視する為にそばに置いているからだ。真子は必要以上に惣右介を近づかせない。一定程度距離を取り、心も開かず、何も情報を与えない。それをわかった上で、惣右介自身彼の元に居ることを選んだのだ彼の副官になり、それを利用する為に。

だから今もこうやって背を向けられたままでも、哀しいとも、寂しいとも思わない。猿柿ひよ里に向けられるような類の感情を自分に向けられないことぐらい、惣右介にもよくわかっている。わかっているのだ。そして、そんなものは意味のないことだということも。
 けれど―――……、

欲しいと思う。

渇望する。

どうしようもないほどに、真子のことを欲しいと、惣右介は思っていた。

どんな感情でもいいから、と。

この男を捉え続けることが出来るのなら、どう思われてもいいと。


 

「惣右介、言いわけがあるんやったら訊いたるけど、あるか?」

 暫くの静寂ののち、いつもの調子に真子は背を向けたまま言う。先ほどまであんなにも声を荒げていた男が、多少の苛立ちの色はみえるものの、ほぼ落ち着きを取り戻し、いつもの調子に戻っていた。彼女の一言は、真子をここまで変えてみせていた。

「ありません」

 惣右介もいつものように応えた。そうか、と長い髪を揺らす。

「明日は、特に何も無かったな? 会議やらそういうのは」

「はい」

「・・・ほな、明日一日、その面、俺に見せンなや」

 わずかに惣右介の方を向いたが、視線をむけることは無かった。

「具合が悪い言う事にしといたる。しゃーから一歩も此処から出るな」

「謹慎、ということですか?」

 真子はその問いには答えない。それは、暗にそうであることを意味しているのだろう。少しの沈黙ののち、いつも飄々としている彼にしては珍しくドスの良く効いた声で、それは静かに凄んだ。

「…ええなァ? 惣右介」

 そのまま、返事を待っているのであろう動こうとはしなかった。惣右介は暫く黙ったままでいたが、眼鏡の僅かなずれを中指でくいと直すと、「わかりました」と静かに応えた。それだけ聞くと、真子は足早にこの部屋から出て行った。

 あっさりとしたものだった。誰もいなくなった部屋の有り様を見て少しため息をつき、それから惣右介は壁にもたれ眉を顰め天井を見上げる。静まり返った部屋に、外で木々を揺らす風の音がやけに煩く聞こえた。