――気持ち、悪い。
――助けて。誰か…、…真子! 大声を出せば誰かが来てくれるかもしれない。けれど、出せずにいた。自分のこんな姿、見られたくないし、真子に知られるのが何よりも厭だった。 どうすれば、どうすればこの状況から逃げれるのか。 とにかくそれだけを考え、必死で実をよじり自由を奪われていない脚で男を蹴り飛ばそうとする。しかしあっさりとその足を掴まれ、それも敵わなくなる。絶望と憎悪の狭間で揺れ動くひよ里の感情の振り幅が一際大きくなった時、惣右介は舌を這わせていた胸元から顔を上げて、わざと困った風な顔をつくった。 「だから、そうやって霊圧を高めない方がいいと、僕は言ってるんだけどな?」 「お前のせいやろがっ」 「平子隊長、気づいてしまうよ」 「ッ!」 「こんな状態、見せていいのかい?」 クスリと笑う惣右介をひよ里は思い切り睨みつけた。 「……相当悪趣味やな」 「どうとでも言ってくれて構わないよ。君にどう思われようが何とも思わないしね」 掴んだひよ里の脚をそっと撫でる惣右介。口の中に酸っぱいモノが込み上げる。吐かないようにそれを堪えて、懸命に自分を鼓舞する。自分を保つためにひよ里は必死だった。 「どうして平子隊長は君みたいな子を手元に置いて置きたがるのかなと思っていたんだけれど、なるほど、今、わかった気がするよ」 「何を言うて……」 「言っている意味がわからないかい?」 惣右介の手が、今度はひよ里の首筋を撫で上げ、嫌な汗が背中を伝う。 「君は、なんというか、人の手で手折られる直前の花のようなんだよ」 強くて儚げで、だからこそ美しい。 「しかしその花が、僕の手で手折られたと隊長が知ったら、どのような顔をするのだろうね。見てみたいと、思わないかい?」 「…お前、これ、真子への当てつけか?」 惣右介は薄気味悪い笑顔を浮かべるだけでひよ里の言葉には何も答えない。それが、この男の答えなのだろう。狂ってると、ひよ里は思った。正気の沙汰ではないと。 「ハッ。しょーもな! ウチにこないなことしたかて真子は何とも思わへんで」 短く息を吐き、小馬鹿にしたように言ってやる。真子への当てつけの為にこんな目にあわされたのに腹が立つ。今すぐにでもぶん殴って刀で斬り捨ててやりたい程だった。 「君は、自覚してないのかい? 平子隊長も可哀相なものだね」 少しだけ憐れむような瞳をしながら言う男に嫌悪と憎悪は増すばかり。 「うっさいわ! ええから、はよ放せ」 身体を跳ねさせて逃れようとするが、脚を力任せに掴まれて引きずり戻される。完全に畳みの上に寝転がる体勢になったひよ里の頭の横に惣右介は両手をつき、彼女を見据えた。 「それは、出来ないな」 「はぁ?」 「手折ってみたくなったんだよ、君を」 ひよ里の頬を冷たい指先が輪郭を描くようにつうっと撫でる。 「さぞかし、愉快だろうね。君が恐怖に慄く様は」 「お前、頭おかしいぞ」 「――もう、黙ってくれないか?」 地を這うような声でそれだけ言うと、ひよ里の唇を噛みつくように奪った。 「…ン―!!ンンン―――ッ―――」 くちづけというには余りにも乱暴で、押し付けたというのが相応しいものだった。固く閉じていた唇も無理やり舌先でこじ開けられ侵入してくる。口腔をそのまま犯された。この上ない程屈辱的だった。縛られて不自由な腕も、かろうじて自由の効く脚も使って全身をバタつかせ精いっぱい身を捩るも、畳寝ている状態では抵抗の意味を成さなかった。ただ虚しく上着が肌蹴ていき、膚の露出がより大きくなるだけだった。それでもあきらめずに顔を左右に振ると、ひよ里の歯に惣右介の下唇が当たった感覚があり、それを噛むように歯に力を入れる。上手く少し噛む事が出来たようで、惣右介が一瞬身じろいだ。その隙にドンと全身を使って惣右介を押しる。でも惣右介の身体が少し傾いただけで、すぐに覆いかぶさってくる。力任せに頬を殴られた。ひよ里の唾液が畳に垂れる。歯を食いしばる暇がなかったためか、口の中が切れ、血の味が広がった。 「くっ…」 頬に残る痛みにひよ里は顔をしかめた。 「女性に手を上げるのは趣味じゃないんだよ。じっとしててくれないかな」 はぁ、と呆れたように息を吐いた惣右介は、感情など何もこもってない瞳と、声でひよ里を見下ろす。舌打ちすると、先ほど切ってしまった頬の内側にピリリと痛みが走った。血が混じった唾液が口のはじから垂れているが、手が自由にならずそれを拭きとる事もできない。惨めでしかなかったが、それを悟られないように自分を奮い立たせることしか出来なかった。 「…よう、言うわ。こないなことしておいて」 「まだ、そんな口がきけるのか」 「お前なんぞ、怖い事あるかい」 吐き捨てる様に言った。こんな男、怖くない。 「健気な君にいいことを、教えてあげよう」 惣右介は目を細め、口の端を醜く歪めてひどく楽しそうだった。 「平子隊長は、たとえ僕が君にどのようなことをしても、僕を副官の座から下ろすことはないよ」 「そんなんウチはどうでもええわ」 ひよ里の言葉に構うことなく話を続ける。 「僕はね、平子隊長の『監視対象者』、なんだよ」 なんや、それ。 「自分の目の届く範囲に僕を置いて、監視してるんだよ」 監視を、している? どういうことや。 「君は、最近隊長が疲れているんじゃないかと、訊いたよね。それは、たぶんそのせいだよ」 クスクスと質の悪い笑い声が耳につく。 「君は常日頃から言われていたんじゃないか? 僕に気をつけろと」 「なんで、それを…」 「……知っているのかって? 思慮深い平子隊長の事だ、想像するに易いよ。それにしても君も君だね。せっかくの彼の忠告を忘れてのこのこ此処までやって来るのだから。」 「そんなん、ウチの勝手やろが」 「ああ、そうだね。だけど、それが彼の首を絞める事になるとは思わないのかい? 君は、ここにきて霊圧を二度ほど高めた。出来るだけ僕がその霊圧を打ち消してあげたけど、もしかしたら気が付いているかも知れない」 可哀相に、と同情の眼差しを向ける惣右介を忌々しく思った。 「もしも、気がついて、隊長が此処に来たらどうするだろうね。おそらく、事を大きくする事もできない。僕を副官の座から下ろす事も出来ない。監視下から外れるのを由とはしないだろうし、ね。でも、君はこんなことになっている。さぞかし苦しむだろうね」 「真子のことが、そないに嫌いか?」 「まさか。寧ろその逆だよ」 「意味、わからへんわ」 「分らなくてもいいよ。だいたい、すべての感情に名をつける事なんて出来ないものだ」 恍惚とした男の表情に背筋が凍った。この男の胸の内にある激しく歪んだものが見え隠れする。 「隊長が初めてなんだよ。あんな風に警戒して僕に接してくる人は。他のヤツはすぐに僕に騙される。ああ、隊長以外にもう一人僕を警戒している男が居るね。アレにはあまり興味がないけれど」 ひよ里はこの男が言っていることに理解をすることが出来なかった。だけど、惣右介は真子にひどく執着しているのはわかる。しかも歪んでいる。そう思えば、惣右介のこの行いにも合点が行く。 ――そうか、この男は――・・・ 先ほどまでの恐怖も無くなり、頭の中がしんと静かになった気がした。怖いだとか、辛いだとか、痛いとか、そう言った類の感情は身を潜めた。その代わり、この男の思い通りにはしてはいけないと、漠然とだがそう思った。 それは、戦闘前の高揚感にも似ていた。ひよ里の顔に質の悪い笑みが浮かぶ。 「憐れ? 面白いことを言うな」 「自分でもわかってんのとちゃうか? ようけこと御託並べよってからに、しょーもない。結局のところ真子に構って欲しいんや。真子の気を惹きたいからウチにこないなことしてんねん。子どもかッ」 ハッっと短く鼻で笑った。 「結局お前は、ウチのことが羨ましいんや。嫉妬してんねん。そらそやわな。ウチと真子みたァにどつきあって喧嘩するとかようできへんねん、お前には。お可哀相にございますなぁ? 惣右介」 「・・・言いたい事はそれだけか?」 「はぁ? 言いたい事? そんなんようけあるわ。せやけどお前と問答するほどウチ、優しないんやわ。すまんなァ。ほんでどうするんや? ウチの事このまま、手籠めにすんのか?」 いかにもくだらないと言わんばかりに口の端を上げ息を吐く。 「したいんなら、好きなようにしぃ。抵抗すんのもアホらしなったわ。ああ、でも、さっさと終わらしたってな。あんまり遅うなると、喜助がうるさいからな」 ひよ里は見下すように惣右介を見た。この男がどんな表情をしているかまではわからなかった。 「まぁ、それにしても哀しいもんやな。こないなことでしか真子の気を惹く事が出来ひんいうのも。それかて、本当の意味で気を惹く事なんかにならへんのやからな――ッ」 そこまで言ったところで、惣右介はひよ里の上に圧し掛かかる。その瞬間はまるで1秒が1分にも感じられるほどゆっくりとした動きに思えた。もうひよ里は抵抗を示すこともしない。それが、彼女なりの最大限の抵抗の意志、だった。頭の中は真っ白で、何もできない自分が悔しく思った。こんな愛の伴わない気持ち悪いだけの行為なんか、早く終わってしまえばいい。終わったら、きれいさっぱり忘れてしまおう。無かった事にしてしまおう。自分の身体に舌を這わせ醜い紅い痕をつけていく男を見据えながら、考えたのは真子の事だった。 惣右介の本当の狙いはいまいちわからなかったが、自分の上官、平子真子を困らせたいと思うのは確かで。それにひよ里が使われたということだけはよくわかった。この状況をみた彼が何を思うかはわからないけれど、きっとイヤな思いをすることは確実だろう。彼の頭を悩ませる一つの因子になるのもきっと間違いない。彼の重荷になってしまうのが、とてもイヤだとひよ里は思った。 どうか気付かないでいて欲しい。 下手に霊圧を高めてしまった自分の不甲斐無さに、安易にこの男の元へ来た自分自身に腹が立つ。今更後悔した所で遅い。歯を食いしばり凌辱に耐える。 惣右介の唇が、ひよ里の細い筋張った太腿に押し当てられる。ゾクッと寒気がして、唇を噛むと八重歯が食い込む。 ――怖いっ。 きつく瞑った目から一筋涙が零れた、
慣れ親しんだ、男の声が障子の向こう側から聞こえた。平子真子の声だった。 「惣右介、居てるんやろが。返事せぇや」 返答が無い事にイラついているのか、真子の語尾がひどく荒っぽいものになる。 「返事せぇへんのやったら勝手に入らせてもらうで」 低い、低い声だった。明らかに怒っているのがわかった。障子がカタっと音がする。きっと真子が手を掛け開けようとしているのだ。それがわかった瞬間、ひよ里は真子に「来るな」と制止する言葉を投げていた。 「……ひよ里か?」 信じられないとでも言いたげな真子の声が障子越しに聞えた。 「ええから、入ってくるな」 「お前、なんで此処に居てん・・・」 「ええから、部屋、もど――ッ」 ――れ…、言いかけて口を惣右介に塞がれた。わざとしているのは、すぐにわかった。 くやしい。くやしい。 屈辱的だった。 指に先に力が入り爪が畳をガリっとひっかいた。その、一拍のちに、障子がバンッと勢いよく開いた。それと同時に惣右介の唇が離れると、急に肺に新鮮な空気が入り込みむせた。咳き込みながら真子が居る方におそるおそる視線を向けると、惣右介の肩越しに絶句して、敷居の上で立ち尽くしている彼が居た。 信じられないと困惑した様子の真子と確かに目があった。 |