忘却の彼方 4 




 

「シンジがそう言ってんだったら、疲れてるだけなんじゃないのー? ひよりん心配し過ぎなんだよー」

「そうやろうか」

 そうだよー、といいながらエンジ色のスカーフかよく似合う九番隊の腕章をつけた副隊長が、ひよ里の広めのおでこを小突く。

副隊長による月に一度の定例会議が始まる前に、ここ最近の真子の様子がどこかおかしいことを久南白と矢胴丸リサに話していた。会議の準備をしながら白は真子に肩もみでもしてあげればいいじゃん、喜ぶよぉ。と冷やかし半分で話を聞いていて、リサは顔色一つ変えず、

「真子がおかしいのはいつもの事やないの」

 気にし過ぎ、とバッサリと切り捨てる。

「まぁ、そらそうやけど…」

 そんなに気にし過ぎなんだろうか? 

頭をがしがしと掻きむしりながら、うーと唸ってみると、リサと白に笑われた。

 会議室にはすでに格隊の副隊長がもう揃っていて、各々会議が始まる前に談笑していた。いつもの見慣れた光景だった。

その時、ふと視線を感じた。

ピンと張り詰めた感覚に緊張感が走る。視線の感じる方をちらりと見ると、そこには惣右介がいて微笑んでいた。
(なんやろ、この違和感)
 確かに微笑んではいるのだが、その瞳の奥がやたら冷たい、ように感じた。思わず視線を外した。

『あいつには、気ぃつけや』思い出すのは真子のその言葉。

 まさか、本当に? 自分の気のせいではなくて?
 もう一度惣右介の方を睨むように見た。すると、いつもの柔和な微笑みで、他隊の副隊長と雑談していた。

 気のせいだったかと、肩を撫でおろす。真子が変な事をいうから過剰に反応してしまったのかもしれない。たぶんそうだろうと、ひよ里はそこで思考を止めてしまった。



 その後、すぐに会議が始った。今回は議題が沢山あったためか昼から始まったはずの会議は、終わるころには日が沈み始めていた。

「あー、疲れたっ」

 やっと終わったーと、ひよ里達は椅子の上でうんと伸びをして、固まった身体をほぐした。

「白、リサ、もう終るか?」

「んー。ちょっと待って。すぐに終わらせるから」

「ほな、外の空気吸ってくるわ」

 今回の会議で議長と書記を務めた二人は、最後の報告書をまとめていた。ずっと会議室の中に居ると、熱気と空気の悪さで顔が火照る。二人を置いて外に出ると、ひんやりとした風が吹いていて、熱を持った顔にはちょうど良かった。大きく息を吸って、ふぅっと深呼吸をする。すると、肩をポンポンと叩かれた。リサか白か? と肩を叩かれた方を向くと、惣右介がニコリと微笑みながら立っていて、反射的にうげっと顔を引き攣らせた。

「人の顔をみて、そういう反応はどうかと思うな」
「あんたがウチに話しかけてくるんが珍しいからや」

 そうかな? ととぼけてみせる惣右介にフンと鼻を鳴らす。

「なんや? 用があるからウチに話しかけに来たんやろ?」

「ああ、そうだった、あのね…」

 惣右介は腰をかがめてひよ里の耳元の方に顔を寄せ、手を当てた。人に訊かれてはまずい事なのだろうか? 小さな声で耳打ちした。

「平子隊長の件で話があるんだけど」

 ドクンと、心臓が大きくなる。

「君、心配していただろう? 隊長のこと」

「別に、そういうわけや……。ただいつもと違うとるから…」

「まぁ、そのことに関して少し話したいことがあってね」

「真子、どうかしたんか?」

 その問いにキョロキョロと惣右介は周りを確認した。まだ、会議室の出入り口には人が沢山いる。惣右介は、うーんと唸りながら言葉を濁した。

「ここでは、少し…」

 惣右介の意味深げな態度に、心臓が早鐘を打つ。手に冷たい汗をかいた。真子に何かあったんじゃないのだろうか? 嫌な問いばかりが頭を過ぎる。

「ほな、どこやったらええんや?」

 いいようのない不安で、胸の中がざわめいてしかたがなかった。

「そうだね。今日はこの後少し忙しくて…、明日も僕は朝から所用で夜も遅くまで戻ってこれないし、こちらの都合を押し付けて申し訳ないが、今日の亥の刻頃ではいけないかな?」

「かまへん」

「では、亥の刻に、僕の部屋へ」

「わかった」

 約束を取り付けると、惣右介は足早にその場から去っていく。その後ろ姿を見つめたまま、真子の事を考えていた。

 会議室で見た惣右介の違和感は、ひよ里の頭の中からすっかりと忘れ去られていた。
 

日も暮れ隊務も無事に終わり、気がつけば惣右介との約束の刻限が迫っていた。外に出るには、十二番隊の隊主室の前をどうしても通らなければならない。隊主室には明かりがついていて、隊長の喜助が起きているのがわかった。できるだけ気づかれないように、足音も気配も消して静かに歩いたが、思いっきり古板を踏みしめてしまい、ギィィと音がなってしまった。ひゃっと肩を竦めていると、戸の向こう側から「ひよ里サン?」と喜助に呼ばれた。ああ、しまった、と後悔してももう遅い。仕方なく返事をすると、隊主室の障子が開き、ぼさぼさ頭の喜助が顔をひょっこり覗かせた。

「こんな時間にどうしたんスか?」

「あ、いやー。あの、ちょっと用があってな」

「こんな時間に?」

「そや。ちょっと呼ばれててん。リサ達に」

 とっさに嘘をついた。

「こんな時間に?」

「そやで」

「ふーん、そうッスか」

 少し不審そうな顔をするも、特に追及をされることも無く「あまり遅くならないように気をつけて言ってきてください」とあっさりと送り出してくれた。今のひよ里に、ついてしまった嘘を上手につき通す自信があまりなかったので深く追及されずに済んだことに安心した。出来るだけ静かに隊舎から出ると、駆け足で五番隊舎のへと向かった。

ひよ里は緊張していた。

後ろめたい気もしていて、霊圧を消して、見回りの隊士たちに出会わないようにこそこそと五番隊隊舎の中に塀を乗り越えて侵入した。隊主室があるであろう方向から、真子の霊圧が微かにして、当たり前だがそこに居るのがわかった。気配を消してきていてよかったと思う。真子は霊圧探査は朝飯前で、こんな時間にひよ里の霊圧がすれば、、絶対に表に出てくるに違いなかったからだ。今は、会いたくない。惣右介に話を聞いたら早々に帰ろうと心に決めた。

 隊主室とは違う方に早足で歩いていくと副隊長にあてがわれた部屋はすぐに見えた。部屋の明かりが障子越しに零れているのが遠くからも確認でき、惣右介がいるのも霊圧でわかった。今更怖気つきそうな自分をなんとか奮い立たせ、副隊長室に行く。ようやく、その前に立ち声を掛けようとした瞬間に障子が開き、思わずたじろいでしまった。緊張で喉がカラカラに乾き、息を飲むとヒクリと鳴った。

 ゆっくりと見上げると、藍色の着流しの上に羽織物を羽織った惣右介があのいつもの微笑を称えてたっていた。「待っていたよ」と低い声で囁かれ、ぞくりとした。胸の中がざわめいて居心地の悪さを感じる。その時初めて、ここに来るべきではなかったかもしれない――そう思った。

 部屋の中へ促されるように入る。手足の末端が凍るほど冷たくなるのがわかった。言いようのない不安に襲われて眩暈がしそうだ。

 とにかく、早く帰ろう。

 障子が閉まるのと同時に話を切り出した。

「惣右介、あんな…」

「身体も冷えているだろう? お茶を入れてくるから、座って待っててくれるかな?」

 惣右介はひよ里の言葉を遮るようにして、有無を言わさぬ口調で言うと、留める間もなく部屋の奥へと入って行った。

落ち着かず、ひよ里はソワソワと部屋の中を見回す。必要最低限の物しかなく、きちんと整理整頓されていた。難しそうな本もある。先ほどまで、写経の様なものでもしていたのだろう。机の上には筆と硯が出たままだ。半紙の上に掻かれた文字まではこちらからではわからなかったが。

 ……まずは、落ち着こう。

 ここは五番隊の隊舎内だ。離れてはいるが隊主室だってすごく遠いわけではない。なにかあるはずもない。それに惣右介は、副隊長という肩書きを背負っているのだ。よもやそれに恥ずべき行動は取らないであろう。そう思い直し、深呼吸をして用意されていた品のいい座布団の上に腰を下ろした。
 
 それから少しして、部屋の奥から惣右介が盆の上にお茶とお茶受けを持って出てきた。

 五番隊舎へ所用で行った際にはいつも惣右介がもてなしてくれていて、その時と同じように「どうぞ」と慣れた手つきでお茶と茶請けの豆大福を差し出してくれた。豆大福は好きな食べ物のひとつで、それをみると緊張の糸がほぐれた。いつものように、手が出そうになったが、そんな場合ではないと思い、途中でその手を引っ込めた。まず先に聞くべき事があると思い、目の前に座った男に目を合わせず喋り掛けた。

「真子のことで話があるって言ってたやろ? なんや?」

 惣右介は答えず、黙ったままだ。眦が引き攣る。

「やっぱ、あれか? 仕事が大変なんか?」

 変に緊張が走り、口調がやや早口になるのが自分でもわかった。

「力になれる事とかあるんやったら、その、言うてくれたらええねんで? 別に」

 捲くし立てるように言いながら、嫌な汗が背中を伝うのがわかった。普段の自分なら絶対に言わないようなことを言っているな、と頭の片隅で思うも沈黙が嫌でとにかくひよ里は喋り続けたが、目の前に居る男はずっと口を噤んだままだんまりを決め込んでいる。だんだんと、惣右介に苛立ち始めた。何故、何も言わない。からかっているのか。

「なんでなんも答えへんねん――」

 顔を上げて惣右介を見た瞬間に何も言えなくなった。微笑んでいるけど瞳はけっして笑っていない。息をのんだ。しばらくの間の後、やがて惣右介が口を開く。

「必死だね」

 惣右介がクツと小さく喉もとで笑ったのがわかった。目を伏せながら、目の前に自分で入れたお茶に手を伸ばす。

「不用意過ぎるんじゃないかな?」

 そのお茶をずずっと一口啜ってから湯呑みを置き、伏していた瞼をあげひよ里を見てもう一度笑う。瞳の色が変わったのがわかった。

「こんな時間に、男の部屋に来て」

 ――失敗した。

 そう思った時には、もう遅かった。

「何もないとでも思っているのかな?」

 ほんの少し首を傾げ、悪戯をした子どもを諌める様に惣右介は言う。ひよ里は座ったままの状態で、惣右介から畳をするようにして身体を離した。自らの身を守るための防衛本能が働く。

 ここから、逃げなくては。早く。

 ひよ里のその考えを察したかのように追い打ちをかけるように惣右介は言った。

「残念だったね。逃げようとしても、もう遅いよ」

 恐怖で思うように動かない身体を無理に動かし、立ち上がろうとした瞬間、惣右介はひよ里の細い手首を掴み、そのまま勢いよく畳に投げつける。ザッと畳を擦る鈍い音とともにひよ里の身体はうつ伏せに這いつくばった格好になる。その拍子に腹を強く打って思わず小さなうめき声を上げた。どうやら顔も一緒に擦ったようで冷たい空気に当たるとその場所がヒリっとした。

「…どういうつもりや」

 這いつくばった状態で痛みをなんとか堪え、絞り出すように声を出した。すると、惣右介はいつもの品の良い微笑みを浮かべ、「さぁ、どういうつもりだろう?」と試すかのように言う。悪意のない笑顔が今の状態と乖離していて、ひよ里の恐怖を更に煽る。

自分の身に怒っていることを悟ると全身が総毛立った。


「ウチに、こないなことして、一体何が目的やねん」
 気丈にもそう言うが、語尾は僅かに震えていた。
 ひよ里はすぐに這ったままの身体を起こし、この部屋を出ようとしたもののあっさりと遮られ、いつの間にか逃げる場所のない部屋の隅に簡単に追いやられていた。このことは少なからずひよ里のプライドを傷つけた。別に惣右介を舐めていたわけではない。ただ、鬼道ならいざしらず、体術の方に関しては過信しているつもりはないが、ひよ里にもかなり自信があった。その辺の男ならたとえ大人で大柄な者であっても倒すのは易いものであったのだ。だから同じ副隊長である惣右介とでもせめて同等くらいにはやり合えるだろうと踏んでいた。同等が無理でも何か隙を突くチャンスはあると。しかし、そのチャンスもすぐに崩れ去った。付け入るすきは全く無かった。実力の差があるのは相手と対峙すればひよ里でもすぐわかる。でも、まさかここまで自分と力の差があるとは……。

「察しがいいね。君は」
 眼鏡の奥で惣右介が目を細めたのが僅かにわかり、ひよ里は奥歯を噛みしめる。両手を壁に縫いとめられたままで不自由だったが、落胆していることを隠し、出来る限り冷静さを保ったまま惣右介と対峙する。

「いらん事言わんでええから、質問だけ答えや」

「この状況でそこまで強くでれるのには、ボクも感服するよ」

 ニヤニヤ笑いながら感心したふうに言う。それが更にひよ里の不快感を募らせる結果になり、潜めていた霊圧も僅かに昂ぶる。

「しょーもないこと言わんでええって言うてんねやッ!」

「ああ、そうやって霊圧を高めてしまうのはよくないな。せっかく消してきたのに、気づかれてしまうんじゃないかな?」

「――ッ!」
 誰のことを言っているのかはすぐにわかった。平子真子の事を暗に言っているのだ、この卑怯者めと、ひよ里は心の中で罵った。

「あの人は、霊圧探査も得意だし、察しもいいからね」

 独り言ちるように言うと、あいている手をひよ里の腹の方へと近づける。白い帯紐にゆっくりと大きな男の手がかかる。思わずひよ里の喉がヒッと鳴るが、惣右介はそれに気を留める事も無く勢いよく帯を解いた。シュルっと布擦れの音が静かな部屋の中でした。
「あっ、やめ…っ」

 袴を締めていた帯を解かれたせいで袴が足元にくしゃくしゃになって落ちた。上着がはらりとはだけ、脚が露わになる。冷たい外気に晒された肌の感覚に背中が粟立ち、ガクガクと膝が笑いだす。

「別に、僕は構わないんだけどね、いっこうに」

 惣右介は楽しげに顔を歪ませながら、抵抗できないように手を後ろに廻し、先ほど解いた帯でひよ里の手首をきつめに締めて自由を奪う。やめろと抗い声を出そうにも口はわななき、情けないほど身体は震えてしまっていて、自分の意志ではどうにもならなかった。虚と対峙した時よりも今は恐ろしいと感じていた。

「女性にこういう事をするのは僕の趣味に反するのだけれど、君、暴れるから」

 とうとう脚の力が抜けてしまい、ずるずると壁で背中を擦りながらへたり込む。惣右介も、それに合わせる様に腰を落とし、さらにひよ里の喉もとへと顔を近づける。言う事の効かない身体をなんとか身をよじり、惣右介をかわそうとするが、肩を強く持たれそれもすぐに敵わなくなる。

「―放せ、や、惣右介ッ!」

 なんとか出した声は震えていた。

「やめろ、いうてんねや―――ッ!!」

 喉もとに柔らかく生温かい湿った感触がした。