――愛しています。平子隊長。 その言葉は、まるで呪いのようだと平子真子は思う。 温かみのある、冷静な男の声。何を考えているのかわからない眼鏡の奥にある瞳は、まっすぐに平子を射抜く。穏やかな微笑みを称える男の顔は平子よりも少しだけ高い位置にある為、いつも見上げる格好になる。金色の髪を一房掴み上げ、男は瞼を閉じ祈るようにくちづける。それだけすると少しだけ名残惜しげに手にした髪を眺め、水を零すように、サラサラと零していく。執務室の小窓から入り込む茜色の夕日と金色の髪が融けて黄金色の輝きを放つと男は眩しげに目を細めた。 終業時間前、執務室で必ず行われるこの行為に、平子はいい加減馴れた。しかし、始めは驚いた。この男が自分のことを、愛している、などと言うものだから、さすがに取り乱しそうになったのを平子は良く覚えている。 「どうせ言われるなら、惣右介やのうて、べっぴんサンのオネェチャンのがええわ」と、とっさにぼやいたのも。 そうですか、残念です。副官の藍染惣右介は平子に向かいニコリと微笑み返す。悪い冗談を言っているのだと思ったが、あくる日も同じように平子に告げたので、冗談でないことだけは一応わかった。 「愛してる言われて悪い気はせぇへんのやけど、すまんなぁ、惣右介。オレは男色の気はないで?」 含みのある意地悪い笑顔を向けてやれば、特に動じることもなく藍染は、くつ、と喉を鳴らす。 「ええ、ボクもです。どうせ一緒に寝るなら女性の方がいいですね」 なんやそれ。と、思ったけれど、平子は口にはしない。言ってしまえばこの男の術中に、はまってしまう気がしたからだ。どうして? と訊かれても平子には答えることは出来ないだろう。本当に、ただ、なんとなくなのだから。 そうやって毎日、来る日も、来る日も、執務室に平子と藍染しかいない時は必ずそうやって愛を囁かれ、髪を撫でられた。 いや、あれは愛を囁くという部類に含まれるのだろうか。例えて言うなら、毎日の食事に毒を極々少量盛られて、身体を毒に慣らされているようにも感じられる。 それに。 愛している、というわりにあの男が身に纏う異質な空気は変わらない。他の死神でこの異質な空気に気がついているヤツはいるのだろうか。みな、この男の柔和な微笑みの方を信じているのだろうか。 この男の微笑みは、何かを隠すための仮面であることは確かだろうと平子は思っている。藍染と初めてあったその時からずっと、この男は何か危うい、と。何が、どう危うくて、何を隠しているかまではわからない。けれど、自分さえこの男を見失わない限りとりあえずは大丈夫だろう。平子はそう考えて、この男を自ら自分が治める隊の副官へと据えたのだ。監視するために。 それが間違っているかどうかは、わからないけれど。 心臓を潰す過剰愛情表現
愛しています。平子隊長。 平子は特に何も答えずに、もう、上ってええで、と、執務室に置かれた重厚な質感のある机に向かったまま、手をヒラヒラと振り藍染に帰るように促していた。いつもならそれが合図となり、藍染は一礼して執務室を去るのだが、今回は違うようだった。一向に去ろうとしない気配にいぶかしんで振り返ると、やはりそこに藍染がいた。 「平子隊長、この後、お暇ですか?」 珍しくプライベートなことを訊いてきた。しかも彼にしてはとてもストレートに。あまりに珍しいので平子はつい目を丸くした。 「別に。今の書類済ましたら、オレももう、上がるよって」 つまり、暇だということだ。そうですか、と藍染が人差し指の背を顎につけ、視線を床の方へと落とす。何かを考えているようだった。 「なんや?」 顔をしかめて平子は藍染を見遣ると、またすぐにいつもの取り換えが何度でもきくような仮面の笑顔を付け、 「よかったら、この後お酒を一緒に飲みませんか?」 「酒?」 「ええ、お酒です。お嫌いでしたか?」 「いいや、むしろ好きな方や」 「でしたら、ぜひ」 先日、酒と刺身の美味しい店を見つけたんです。するすると、にこやかに喋る藍染。仕事の後のプライベートでこの男と二人きりでどこかに飲みに行くということが、今までただの一度もした事が無かったことに、平子は今更ながらに気がついた。休憩時間中の昼飯か、その他大勢での飲み会でなら何度かあるのだが。 (……まぁ、ええか) 特に今日酒を飲みたい気分でもなかったのだが、この男の気まぐれにたまには付き合ってやろうと考えて、軽い気持ちで平子は承諾した。それに安堵したように頬を緩ませた藍染は、敏腕の副官よろしく手際よくスケジュールをたてていく。何時に、どこで、個室の予約をしておきます。それだけを伝えると礼儀正しく一礼して、藍染は執務室から出ていった。 指定された店に、指定された時間より十数分遅れて着いた。思ったよりも仕事が長引いてしまったのが原因で、藍染にお小言を言われるかもしれないな、と考えると少し面倒くさくなったが、今更約束したことを反故にすることも出来ず、仕方なく暖簾をくぐる。上品な店の設えで、あの男が好みそうな店だった。 平子がよく行く店はもっと大衆向けの小汚い、でも美味い店だったりする。そこの店主のおばちゃんとは仲が良いので、その他の店には脚が向かない。と、いうか、新しい店を開拓する気もないというのが本当の所だったりするが。 すでに夕食時とあって、店内は賑わいをみせていた。恰幅の良い男どもの笑い声と、旨そうな煮物などの匂いが鼻をくすぐる。ぐるりと店内を見渡せば、顔だけは知っている死神も何人かいた。隊主羽織を羽織ったまま来たせいでやはり目立つのか、平子を見つけると起立して礼をしようとする者も現れ始めた。そんなのは要らんと笑いながら首を振れば、それでも、と座ったままお辞儀をされ、いくらか疲れが増したように思った。 そんな平子に気がついたその店の人の良さそうな店主は、すぐに奥の個室の座敷へと案内をしてくれた。 店主が一声かけて襖をひくと、先に着いていたらしい藍染は、彼らしく姿勢をただした状態で、すでに酒を飲んでいた。目が合えば、少々気まずそうにお先にすみませんと頭を下げるので「かまへん、かまへん」と平子は手を振る。逆に何もせずに待たれでもしていたらそちらの方が気まずい。平子のそんな性格を慮っての藍染なりの気遣いなのだろう。本当によく出来た副官だ。 ――本当に。 「なんやお前、死覇装のまんまかい」 つまらへんな、と声を掛けながら平子は履物を脱いで座敷に上がると、隊長もじゃないですか、と返す。藍染の向かい側によっこらせと胡坐を掻いて座ると、それを見計らって座卓の隅に置かれていたお猪口をスッと差しだされた。 「熱燗ですが、よろしかったですか?」 「あぁ、ええで、なんでも」 藍染に注がれた酒は、なかなか美味かった。もう一杯と、お猪口を差し出せば、口に合ったようでよかった、と藍染は安心したように言った。 ずいぶん酒が進んだ頃だった。 「なぁ、惣右介」 「なんですか?」 平子は疲れがたまっていたのか、今日は酔いが回るのが早かった。と、いっても羽目を外さない程度の常識はきちんと持ち合わせているので、もうお猪口には酒はなく、水の入った湯呑みが手元に置かれている。 酒が入っているせいだろうか、 「お前、オレに呪いを掛けてんか?」 アホなことを訊いてしまった、と平子は一瞬後悔したが、訊いてしまったものは仕方が無い、半ば投げやりになる。目の前の男を見れば、きょとんとしてこちらを見返していた。目が合うとぷっと吹き出されてしまい、平子は眉を寄せた。 「呪い、ですか。まぁ、そうとも取れますよね」 藍染はくすくすと笑った後、落ちつかせる為か、平子と同じ頃合いでもらった熱いお茶を一口飲んで、湯呑の淵をキュッと親指の腹でなぞる。睫毛を伏せながら藍染は言った。 「呪いを掛けているつもりはないのですが、でも、あれは本当ですよ」 一拍置いて、 「僕は、あなたが欲しい」 話を自分から振っておいて、やはり訊くべきでは無かったと後悔した。 しかし、すでに遅かったようで話の流れは完全にそちらに向いてしまっている。いつかの時のように藍染の穏やかで、けれど鋭い瞳に射抜かれた。 口の中がざらつく。 「オレは男には……、」 「興味が無いのでしょう? ですから僕も、です。身体自体はさして興味はありませんよ。あなたの顔は好きですが」 何故か濁すように言ってしまった平子の言葉に、藍染はそれを補うように付け足す。 ふっと笑ったようだったが、角度的に眼鏡のガラスが照明に反射してしまって、その瞳の奥が読めなくなった。藍染は唇を横にひく。 「僕が欲しいのは、あなたの、」
『心』と、いうことか。 「それが手に入るのなら、身体の関係を持つのも吝かではありませんよ」 「アホ言え、心も、身体もやるかい」 平子は湯呑の中の水を飲み干すと、座卓の隅に置いた。 「本当に残念です。あなたさえそれをくれれば、僕は僕の全てを差しあげるのに」 いとも簡単にそんなことをと口にする藍染に、自分の中の何かが揺れた気がした。 嘘をつけ、と。 「いるか、そんなもん」 半ば吐き捨てるように言いながら、膝をたてて、頬杖を突き、目の前で静かに茶を啜る男を横目で見る。目が合うと笑われ、平子は舌打ちをした。 平子が本当に誰かに惚れたとして、心をすべてそいつに差し出すことはまずしないだろう。 そして、藍染もまたきっとそうだろう。全てを捧げた振りをして、本当のことは何一つ見せようとしないだろう。 この男の言葉は欺瞞だ。自己欺瞞。己さえもそうやって欺くのだろう。どれだけ本人自身が相手のことを思ったとしてもだ。 「なんぼお前が言うても、オレは応えられへんで?」 「……、そうでしょうね。わかっていますよ」 掛けていた眼鏡をいったん外し、照明に翳して、汚れをふき取りまた掛け直すと、藍染は薄く目を閉じた。 「さっきおっしゃられた、呪いという言葉、言い得て妙ですね。確かに、そうなのかもしれません」 「……、」 「隊長がおっしゃる通り、僕は呪いを掛けているのかもしれませんね」 愛しているという、呪いを。 「自分自身に、やないか」 「あなたにも、ですね」 返す言葉に詰まり、平子は誤魔化すようにして箸を取りまだ少し残っている酒の肴にと注文した刺身に手をつけた。一切れ挟みとり、わさび醤油につけ、口の中に放り込む。新鮮で美味いと思っていたはずの刺身からなんの味も感じられなかった。まるでゴムを食べているような感覚だったが、しばらく無言で食べ進めた。 |