僅かな沈黙を破ったのは藍染だった。

「僕にも、食べさせてください」

「はぁ?」

 急に何を言い出すかと思えば、食べさせろときたものだ。予想外の発言に驚いたが、その素振りを見せることはしない。

平子は大儀そうに、行儀悪く手に持った端を振りながら、

「自分で食えや」

「あなたに食べさせて欲しいのですが」

 ペースをこの男に完全に持って行かれきがして、口をへの字に曲げる。気に入らなかった。

「今だけでいいんです。ここだけで」

「そういうつもりで、オレを誘ったんかい。腹黒いやっちゃな」

「隊長は、わかった上で来られたんじゃないんですか?」

 知ったふうに含み笑いをする藍染に、口を歪める。

「ごっこ遊びか」

「何でも構いませんよ」

 藍染の長い指が平子の髪に伸びる、執務室でするように一房掴まれた。頭の上から少量ずつ冷水を落とされたようなイヤな感覚に、思わず藍染の手を払いのけた。男の手が所在なさげに宙を舞う。何とも形容のし難い表情をする藍染に、多少罪の意識を憶えた平子は畳に視線を落とし、その顔を見ないようにした。二人して押し黙り、部屋には静寂が振り落ちた。

 ――すみませーん、冷酒くれませんかー?

 ――へぇ、少々おまちください。

 ――あ、こっちも。

 ――へぇ。

 襖の向こう側で、客と店の者のやりとりがくぐもって聞えた。少しして、どっとその場が湧く笑い声が聞こえてきて、
 それが合図になった。

「今だけや」

 平子は自分でもよくわからないうちに何故かそう言っていた。

しまった、と思ったがもう遅い。

 もう飲むまい、と下げたはずの徳利に手を伸ばす。揺すればまだ中身があったので、手酌で自分のお猪口に注ぎ、すっかり冷めてしまった酒を飲み干す。目の前に居る男が、今どんな顔をしているのか見ることが出来ない。自分で言っておきながら平子は酷く動揺していた。平静を装うので正直精いっぱいだった。

「今回だけ、この場でだけ、そのお遊びに付き合うたるわ」

本当に何を言っているのだろう、自分は。

「せやけど、これっきりや。執務室でのああいうのも、もう、終いや」

「……、」

「ええな? 惣右介」

「……、わかりました。隊長」

ああそうか、きっと悪酔いしてしまったのだろう。

そうだ、自分は酔っている。

 妙に冷静な頭の中で平子は自分に言い訳をしていた。

 藍染と平子、二人だけで居るこの個室は、まるで外界から切り離された空間のようだ。あまりにも現実味がない。

あれから、もう少し飲みたいと言い出した藍染は酒を追加で頼み、また飲み始めた。

一時の戯れのつもりではあるが、どうせならこの男の望んでいることをしてやろうと平子は思った。しかし、実のところどうすればいいかよくわからない。男が女にするようなことを望んでいるわけでは無い気がする。結局、平子は何をするでもなく暫くの間、藍染を眺めていた。

 徳利を持つ手を見る。袖から伸びた男らしい筋張った腕。刀を握る者にしてはやけに綺麗な手。長い指。その上に乗っている丁寧に丸く切りそろえられた爪。死覇装の上着の合わせ目からのぞく健康そうな膚。浮き出た鎖骨、喉仏。酒のせいか僅かに上気した頬。眼鏡の奥にある伏せられた長い睫毛。こんなふうにこの男を観察したことは始めてだった。もともと、ええとこのお坊ちゃんかと思う程この男の所作は美しいと思っていたが、改めてみるとどこか女性らしさも感じる。

(何考えてん、オレ)

 アホか、と内心思いながらも、そのまま眺めていると、藍染と視線がぶつかった。

あっ、と思う。

 ずっと眺めていた自分のことが急に恥ずかしくなって、平子は顔を背けると、肩を揺らしながら藍染は静かに笑い、持っていた徳利を脇に置く。そして、言った。

「飲ませて下さい」

「――――ッ」

 その瞬間、ギュッと心臓を掴まれた気がした。

 藍染のいう通りにしてやった。

酒の入ったお猪口を手に持ち、零さないように男の口元に運ぶ。傾け、酒を口の中へと流し込んでやると、ゴクリと嚥下する音が聞こえた。すべて受け切れずに酒が口の端からつっと零れ、顎を伝い首筋を濡らし、胸元へ辿りつく。もっと、と藍染が言うので、さらに飲ませてやった。また、少しだけ零す。気持ち悪いだろうに藍染は、それを拭き取ろうともしない。仕方なく自分の手でぬぐってやると、コクっと喉が鳴ったのがわかった。

目を閉じれば瞼の裏側が紅く染まっていくようだった。湧き上がる唾液を飲み込む。

「刺身、食わせたろか」

「はい」

 赤身を一切れとって口に運んでやる。藍染は少しだけ口を開いて、唾液に濡れた舌をのぞかせた。その舌にそっと置いてやるとおいしそうに咀嚼し始める。ゴクッと飲み込んだのをみて、平子はもう一切れ取ってやった。そこで、意地悪な気持ちになった平子は、口元に運んでやろうとしたのを止め、自分の掌の上に置いて、座卓に肘を突きながら藍染の前にそれを差しだした。

このまま食べろ、という意味だ。

どうするだろうかと眺めていると、掌に置かれた刺身と、平子の顔を見比べた藍染は、掌の方へと顔を持って行きそのまま食べ始めた。

唇と生温かいぬめっとした舌の感触と、腕をくすぐる柔らかい藍染の茶色の髪。掌についてしまった醤油を舐め取る音。五感ではっきりと感じ取っていた。

 心臓の音がやたらうるさい。

 食べ終わって顔を上げた男は特に何も思っていない風で、少し口の端を釣り上げて微笑んで見せる。

気に入らない。その、余裕のある顔が気に入らない。

 足袋を脱ぎ、今度は足の甲の上に醤油に付けた刺身を置いた。藍染は躊躇いを見せる事もなく、両手を畳につき腰を折り、這いつくばるような姿勢をとる。まさか、と思ったが藍染は躊躇することもなく、そのままピチャピチャと音をたてながら食べ始める。

平子はその様子を冷めた目で眺めていたが、内心ざわついていた。

「……まるで、家畜やな」

 蔑むような言葉が、口を突いて出ていた。顔を歪ませる。

「汚い、思わへんのか」

 とにかく、無性に腹ただしかった。

「プライドあらへんのか、自分」

 聞えているだろうに、藍染はそれに答えず、這ったまま平子の足を丁寧に舐めている。足の指、一本一本を、その指の股に至るまで舌を器用に使い舐めあげる。頭の中が沸騰するようだった。

「惣右介」

「……、」

「惣右介、もう、やめろッ!」

 制止を促しても、舌の這う動きは止まらない。苛立ち「ええ加減にせぇ」と怒鳴りながら、無理やり顔を両手でつかみ自分の足から引き離す。濡れた唇が、弧を描く。

「何考えてんねやッ」

「あなたのことを、ですよ」

 獣のような姿勢のまま、藍染は平子を見上げる。こげ茶色の瞳が濡れているようにみえた。背中に刀を忍ばされたみたいな緊張感が走る。平子は手を後ろにつき、畳の上を滑るように一歩後退した。伸びてきた藍染の手を振り払う。

「もう、遊びは終いや。帰るで、惣右介」

 これ以上、藍染と二人きりでいるのはいけない気がして、腰を上げようとした。けれど、藍染に足袋を履いたままの足を引っ張られ、バランスを崩しそのまま仰向けに倒れた。長い金色の髪が扇のように畳に広がると、藍染は嬉しそうに目を細める。

「終いやいうたやろ。いつまで遊ぶつもりや」

 平子は努めて冷静な口ぶりで藍染を諌める。できるだけ動じていない素振りをした。

「ええ加減、きしょいぞ、お前。自分でわかってんのか?」

 藍染は薄い笑みを浮かべると、平子の死覇装の袴の隙間へと手を伸ばす。

「そう……ッ!」

手での制止が間に合わず、中への侵入を許してしまう。自分の意志とは関係なく燻り始めていた熱の場所へやすやすと辿りつかれる。藍染の指先が平子を撫でた。

「嫌そうに言う割には、反応を示されるんですね。ああいうのがお好みですか?」

「アホ言うてないで、撫でとる手、どうにかせぇ」

「ご自分で押しのければいいじゃないですか」

「下手に抗ったら、逆に欲、煽ってまうやろが」

「今でも十分、扇情的ですけど」

 袴から抜いた手を、今度は平子の胸元に這わせ始める。触れるか、触れないかの微妙なそれに、目の前がくらりと揺らぐ。

「遊びは終いや、いうたで。何度も言わすなよ、惣右介」

 藍染の指が鎖骨をなぞる。その感覚に身体中が粟立った。

「ここで、ことに及ぶつもりか?」

 平子は藍染を睨みつける。それに動じることは無く、喉の凹凸をなぞる指先。口の中に溜まった唾液を呑み込んだ。

「平子隊長――、」

言いながら藍染は平子の薄い唇に触れる。

優しく、丁寧に。

そして、愛を請うように。

「僕は、あなたが与えてくれるなら、何でもよかったんです。痛みでも、蔑んだ瞳でも、侮辱の言葉でも。愛しているという気持ちに応えてくれなくても、それで、よかったんです」

 何を言っているのだろう、この男は。

「けれど、あなたは本当の意味で何も与えてくれない。どうすれば、あなたは僕にあたえてくれるのでしょうね」

「そう、す……、」

 呼ぼうとした名前は、その名前の主にくちびるを塞がれ、遮られた。僅かに触れる柔らく冷たい唇の感触。

「遺言、みたいなものです」

 ますます意味がわからなかった。

 藍染の唇が離れると、すぐにその口元を手の甲でぬぐった。それを見て藍染はまた静かに笑う。

「怖がらないでください、もう何もしませんよ」

「怖がってへんわ」

「そうですか」

 藍染は身体を起こすと、腕をひいて平子を起こした。肌蹴た胸元の合わせ目を平子は手早く直す。

「帰りましょう。付き合わせて、すみませんでした」

 先ほどまでの何かに浮かされたような表情はなりを潜め、いつもの藍染へとすでに戻っていた。笑っているようで、本当は笑っていないだろう、笑い顔の仮面。出来の良い、多くのモノから慕われる藍染副隊長のという、あの仮面。

帰り仕度を始めた藍染の背中を見ながら、平子は暫く黙ったままでいた。

この男を副官に据えた理由や、愛していると言われた時のことや、さっきまでの出来ごとやらが頭をめぐる。

「……? なんでしょう?」

「……、」

 何事もなかったかのように振舞う目の前の男に、平子は、もう、何も言えなかった。言いたいことは沢山あるはずなのに、何一つ言葉にすることが出来なかった。

 何を、どう、言うつもりだったのか……、平子自身にもわからない。今、この瞬間に胸の中に渦巻くこの感情に名前を付けることも出来ない。

 首を振り、気持ちを切り替えた。

「オレがここの、勘定するから、お前は出しなや」

「あ、でも、お誘いしたのは僕ですし」

「アホ。隊長の顔、立てんかい」

 袂から財布を取り出した平子は、藍染の腕をトントンと軽くたたくと、襖を開けて店主を呼び寄せた。

夢は終わり、現実の続きが始まる。

 

隊舎への帰り道、当たり障りのない話をしながら、当たり前のように藍染は平子の二歩ほど後ろを付き従うように歩いていく。

並んで歩くことはなかった。店を出たその瞬間から、二人は完全に五番隊の隊長・副隊長へ、戻っていた。

「惣右介」

「なんですか? 隊長」

 いつものように平子は後ろを向くことをせずに、副官の名を呼んだ。副官もいつものように、それに返事をする。

「また、飲みに行くか」

 平子の言葉に、少し間を置いて藍染は答える。

「ええ、そうですね」

「今日みたいなンは、無しやけど」

 そっけなく言いながら、平子は星があまり見えない夜空を仰いだ。遠い空に在る三日月は、本当に絵に描いたように角の尖った月で、手に刺されば、血が出るだろうと思った。

 冷たい夜風が、頬に当たる。前髪を攫って行く。

 願い、みたいなものだった。

そういうことを重ねていけば、もしかしたらこの男は、変わっていくかもしれないという、平子の願い。

そうであって欲しいという希望。

「ええ、わかっています」

それで、いいです――。

目の前で闇夜に溶けることなく、風になびく金色の平子の髪と、五番の文字を戴く真っ白な隊主羽織を眺めながら、藍染は凪いだ瞳で儚げに、哀しげに笑っていた。

 振り返ることをしなかった平子は、それを知らない。


 それから数日が経ったが、二人の間は特に何も変わらなかった。

藍染と一緒に酒を飲み、一線を越しそうになったあの夜のことは、平子もよく覚えている。けれど、出来るだけ考えないようにして、何も無かったように振舞っていた。

隊長と、副隊長で、監視する者と、監視される者。今まで通りだ。

しかし、変わった事は一つある。

その日を境に藍染は愛を囁くことをやめ、平子の髪を触ることもしなくなった。

 どうしてなのか、尋ねることはしなかった。

平子が言った言葉を忠実に守っているからなのかもしれないし、特にそういった感情が無くなったのかもしれない。それならそれで良いと平子は思った。

心臓が潰れるほどの虚しさが胸に渦巻く事もあったが、蓋をし、見ないようにした。

そうしなければいけない。見てはいけないと、自戒する。

名もない感情に鍵を掛け奥底に仕舞いこみ、平らな日常を過ごすことを平子は選んだ。


やがて、その名もない感情は、憎悪へと変化する。

警戒していた通りに自分を裏切り、藍染は他の仲間に刃を向けた。平子はその予兆を見抜くことは出来なかった。

冷めた瞳と、月と、自分へと振り下ろされる斬魄刀を見ながら、かつて『愛している』と言っていたあの男の言葉を思い出す。

『あなたは本当の意味で何も与えてくれない。どうすれば、あなたは僕に与えてくれるのでしょうね』

 ならば、望み通りに与えてやろう。

 恋焦がれるほどの、深い憎しみを――。




お題提供 ロメア 様


ただ一身に藍染様に這いつくばって足を舐めていただきたかったんです。嗚呼、書けて最高でした!あと、行為に及んでしまうよりも、わざわざ食べさせてあげてるほうが、結構エロいなって思う変態です。私は。2012.03.16