忘却の彼方 10




 漆黒の夜は明け、東の空は白みはじめていた。

もう少しで隊舎に居る隊士達も起きて活動を始めるだろう。藍染惣右介は五番隊舎内の副隊長に当てられた自室で、机に向かう格好で座っていた。数時間前にお茶と茶菓子によって汚された畳は男の手によって綺麗に拭きとられていた。来客用の座布団もきちっと仕舞われている。彼らしい整理整頓された部屋が出来上がっていた。奥の部屋には本来ならまだ布団が敷かれてあってもおかしくないのだが、それもなかった。惣右介は眠ることもせずに、そのままでいたのだ。

あのあと、真子とひよ里がこの部屋を出ていってから一睡もしていない。件で動揺して寝なかったのではなく、ただたんに眠る気になれなかったというのが正解なのだろう。夜が明けると同時に、眩しいほどの朝日が木枠の小窓から差し込み、彼の部屋も徐々に明るくなり始める。けれど、惣右介は動かない。寝間着のまま、死覇装に袖を通すこともしない。ただじっとしていた。

理由は簡単だった。

自分の上官である平子真子に「この部屋から出るな」と言われたからだ。目的はある意味、達成できたようなものだった。あの出来事は彼の逆鱗に触れたのは確かだった。それを自ら願っていたのに、どうしてだか虚しさだけが残る。

決して自分はその場所に立つ事は出来ないと、同じ目で見られることは無いと、あの瞬間思い知った。悔しいわけではない。憎らしいとも思っていない。逆に心の中はシンと静まり返っていた。不思議な程に。

と、障子の向こうに人の気配がした。誰かはすぐにわかった。平子真子だ。もう今日は此処に来ることは無いだろうと惣右介は思っていたが、どうも違ったようだった。

惣右介、と静かに呼ぶ声がした。

「どうせ起きてんねやろ? 入るで」

惣右介の返答を待たずに真子は不躾に障子を開けた。開け放たれた場所から大量の朝日が降り注ぎ、薄暗かった部屋が急に明るくなる。その中で佇んでいた惣右介は上官の視線を感じ、そちらの方へと顔を向けた。どんな気持ちで自分を見下ろしているのだろうと単純な興味本位で、特に臆することも無く真子の顔を見上げる。

「どうされましたか?」

いつもと変わらない様子だった。すでに彼は死覇装を身に纏い、隊主羽織も羽織っていた。金髪の長い髪は陽の光を一身に浴びてキラキラと輝いており、素直にそれを美しいと感じ、眩しくて、惣右介は少し目を細める。

真子はフンと鼻を鳴らしながら首をコキコキとまわし面白くなさそうな顔をしていた。

「今日、ちゃんと出勤せぇや」

一瞬、惣右介の思考が止まる。彼はつい数時間前に此処から出るなと言ったばかりだったのに、その心境の変化は。

……。

「どういうことですか? 謹慎を言い渡されたのは隊長では無いですか?」

特に挑発しているわけではないが、落ちつき払った惣右介の言い方は逆に煽っているようにも聞こえる。が、真子も短気では無い。お互い腹を探り合うような沈黙を迎えたあと、しばらくして真子は、口の端を歪める。

「何のことや?」

 不敵な笑みさえも浮かべて素知らぬふりをしてみせていた。

なるほど。と、惣右介は膝の上に軽く握った拳を僅かに握りしめる。無かったことにしたのかと、十分に察することが出来た。惣右介は一度目を伏して、もう一度真子を見据えようとした、

その、瞬間だった。

鞘に収まったままの斬魄刀が目の前、わずか数センチを掠め、ダンと重たい音をたてながら机に刺す勢いで叩きつけられた。こじりの部分を無言のまま眺めたあと、多少驚いた素振りをみせ、しかし顔色を特に変えることもせず、真子をまた見上げる。フッと息を吐いた。

「……物騒ですね」

「抜刀はしてへんやろ」

涼しい顔をしながらも、真子は鞘の下緒の所をギリギリと握り緊めていた。それだけで十分に惣右介にどういう感情を向けているのか伺い知れる。

「……、」

「お前は頭のええやつや。オレが何を言いたいか、わかるな?」

 



平子真子は十二番隊舎の来客用の応接室に居た。

向かい合って座っているのはその隊の隊主である浦原喜助だ。副隊長である猿柿ひよ里は所用で他隊に出向いていた。他の隊士達も技局の方へ詰めている為、よれよれの薄汚れた実験用の白衣を着ている喜助自らが真子に茶を出していた。ずぼらで愚鈍と某二番隊の席官に称される通りの男の格好に、ひよ里がキリキリする理由を察する。しかし、ヘラヘラと気の抜けた笑顔を浮かべる喜助の外面と、人に見せることのない内面が、実のところかなりかけ離れていることは、見ていればなんとなくわかる。

(人のこと、言えた義理やないか)

胸の内で独り言ちつつ、出されたお茶とお茶菓子に手を付ける。一緒に出されたお茶菓子はひよ里が選んだという芋羊羹だった。食べて一息つくのを見計らったように、よかったんスか? と喜助が訊いてきた。おそらく、ひよ里が居なくていいのか? という意味なのだろう。余計なお世話だと思いつつも、丁寧にもてなされている手前、邪険にも出来ない。

「……逆に居てへん方がこちらとしてもお前と話がしやすいでな」

「そうっスか」

真子を見ていた喜助は視線を湯呑みに落とし、手を伸ばす。

「どうや? あれから」

「おや? 誰の事でしょう?」

 素知らぬ顔をして澄ます喜助に、真子は片眉をぴくりと上げた。

「性根が悪いのう、喜助。そういうとこが昔のオレに似てて好かんわ」

「褒め言葉ッスかね、それは」

「褒めてへんに決まってるやろ」

酷いッスねぇ〜。軽口を叩きつつ、喜助は僅かに目を細め茶の香りを楽しむ。舌打ちをうちながら卓に肘をついた真子は、視線を横に流した。

「普通ですよ。いつもと変わりありません」

ふざけた言い回しを止め、ずずっと茶を啜ると高質の漆で塗りあげられた唐木の卓の上にカツ、と小さな音をたてて置いた。喜助は静かに息を吐いて、自分の髪の毛を揺らそうとする。褪せた金色が微かに動いた。

「いつもと変わらなさすぎるのが逆に変すよね」

「……、」

「貴方に言われた通りに休んでいいと言ったんスよ。あの日も。でも、技局の湿布を貼って頬の腫れが引いたらすぐに出てきましたよ。いつも通りに」

そうか、と言いながら真子は黒文字で羊羹を小さく切っていた。何か気持ちのやり場に困っているような感じで手を動かしている。喜助はその様子をしばらく眺めてから、頬杖をついた。

「ひよ里サンに尋ねても、要領を得ないんスよね。矢胴丸副隊長の所に行くと言って出て、貴方と明け方に戻ってくる。そこはいいんスよ。別に」

だけど、付け加えながら、

「頬を腫らせて帰ってくるし、手首には縛られたような痕はあるし。貴方は何も訊かずにただ、今日は休ませたってくれと頭を下げてくるし。湿布を持っていったら、今度はひよ里サンが、誰にも言わないでくれと頭を畳に擦りつけるようにして懇願してくるし。アナタ何かしたんスか? ひよ里サンに」

「それは……」

言い淀む真子をみて、見透かしたように喜助は口元だけで笑う。

「僕もまさか平子サンが彼女に乱暴をしたとは思ってませんよ。どれだけ喧嘩してても彼女に酷いことはアナタ、出来いでショ?」

「……、ある程度察しがついてんねやろ」

「さぁ?」

核心には触れない方がいいのだろう? と言いたげな喜助の目から逃げ、手元に視線を落とす。お茶受けの羊羹をぶすりと刺し、乱暴に口に運ぶ。お茶も一緒に流し込み、まとめて呑みこんだ。味もへったくれもないだろう。

乱暴に湯呑みを座卓の上に置いた。

「忘れろ、言うねん。あいつ。全部無かった事にせぇって」

真子は荒っぽく口元をぬぐう。

「全部っスか」

「せや。なんもかんも、あの日の晩にあった事、全部や」

あの日の夜あった忌まわしい出来事も。そして、確かに通じ合っただろう思いも全て、ひよ里は忘れろと言ったのだ。五番隊舎には来ていない。だから惣右介とも何も無かった。ゆえに、惣右介の謹慎も無し。そして、真子との間も何も無かったと。クソッ、と歯噛みして呟きながら、苛立つ感情を出来るだけ殺す。

「オレの手落ちや。あいつ、なんぞ気いついてんねや。問い詰めても一切口わらへんけど」

卓に肘をついたまま、首を垂れて頭を掻き毟る。おそらく、気が付いているのだろう。真子が惣右介を監視していることを。知った上で、彼女なりに考えて良かれと思って行動をしているのだ。しかも、事を大きくすることも出来ず、かといってなんらかの処分を隊長としてしなければならないだろう真子の事を慮って。その気遣いがわかるだけに、真子は自分の不甲斐無さに腹が立つ。

しかし、それだけじゃない気がする。それ以外に何かあると思うけれど、ひよ里は何のことを言ってんのかわからへんわ、と取り合おうともしなかった。惣右介にもそれとなく探りを入れてみたが、やはりわからなかった。

「で? ひよ里サンの言われるがままに無かったことにしたんスか」

 喜助は呆れたようにため息をつく。

「困りますね。平子サンとの仲云々はどうでもいいんスけど、別の件ではね。彼女は、僕の大事な副官なんスよ」

 わかっていらっしゃいますよね? と念を押す。恐らく彼女の隊長である者の真摯な意見なのだろう。

「わかっとるわ。――せやけど、あいつ謝りながら泣くねん。ずっと。あんなん、初めて見たわ」

やるせない気持ちを吐露すると真子は顔を覆い、そのまま押し黙った。かなり参っている風に喜助の目に映る。彼らに起こった出来事を推し量りつつ、

「どうするおつもりで?」

「どうするも、こうするも、あいつをあのままにするつもりはないわ」

「そうっスか……、」

 くるくると湯呑みをまわしながら、

「藍染サンのことは?」

「それも、折を見て、けじめつけたるわ。利子つきでな」

「……、」

「その為に、手元に置いてんやから」

膝の上で軽く握っていた手をきつく握りしめた。喜助は何も答えず、ただ、そうッスかと相槌をついた。

静かな時間が流れる。

今日は朝から温かな風が吹いていた。開けられた応接室の小窓から風が吹きぬけると、真子と喜助の前髪を攫っていった。

「なァ、喜助」

「はい」

 そう言えば、と、ふと思いたったことを喜助に訊いた。

「ひよ里、……あいつ、いまどこや?」

「六番隊の朽木副隊長の所っスけど」

「蒼純のとこか……」

 顎に手を当て、独り言のように言う真子に喜助は眉をひそめる。

「まさか、藍染さんも?」

「いや、あれは今、浮竹さんとこや。せやから鉢合わせはまず、無い思うけど」

「こういう時のイヤな予感って、当たりますからね。僕が迎えに行きます」

 喜助が立ち上がろうとしたのを真子は制止した。

「いや、ええ。オレが行く」
 真子は立ち上がり、邪魔してすまんかったな、ごちそうさんと礼を言ってから瞬歩でその場から姿を消した。