忘却の彼方  



漆黒の闇夜に、欠けた月が冷やかに妖しく光る。一筋のその光が、隊長室の木で造られた格子付きの小窓から差し込み、畳に一筋の線をつくっていた。冷たい風がヒューヒューと吹き、木々を揺らす音が春はまだ先であると告げる様に、静かな部屋に煩く聞こえていた。


 折に触れ、平子真子に言われていた。

「アイツには、気ぃつけや」と。

 どういう意味かと問えばそれ以上は口を噤んでしまうので、その真意を確かめる事がずっと出来ずにいたが、何度も言われるので、あの男には気をつけないといけないのだろうと、思った。一応、頭の片隅に入れておいたが、それ以上は思考を止めていた。本当は気が付いていながら考えないようにしていたのかもしれない。あの男が普段見せる柔和な微笑に混じり、凍てつくような眼をしていることを。誰しもが持っているだろう感情のすべてを放棄したような恐ろしい眼差しを。あの男の持っている狂気にどこかで気づきながらも、大丈夫なのだと気づいてないふりをしていたのかもしれない。理由は簡単だった。

 その男は、平子真子の副官であったから。

 間違っても、何かしでかすことはないであろうと。信じて疑わなかった自分は本当に愚かであったと今更ながらに思う。どうして、あの男の口車に簡単に乗ってしまったのだろう。

 言い訳をさせてもらえば、最近の真子の様子が気がかりであった。いつも…、というわけではないのだが、時々酷く疲れた顔を見せる事があった。本人は隠そうとしていたし、実際上手に隠していたと思う。ただ、人よりも彼に好意を持って見ていたひよ里にとって、隠している事は意味をなしていなかった。

 心配だった。とにかく心配だった。他の事なんて気にかけている余裕もないくらいに。

 しかし、今は後悔ばかりが胸に押し寄せる。

 軽率であった。無警戒過ぎた。無防備過ぎた。

 自分を蔑む言葉しか出てこない。


 

 五番隊の隊主室から少し離れたところに副隊長室があった。副隊長室の奥は日々大量の業務に追われる副隊長にあてがわれた寝起きが出来る私室がある。そこに猿柿ひよ里は居た。彼女は十二番隊の副隊長なので、その場に居ることは通常あり得ない。あり得ないはずだが、そこに居た。

いつも寄せている眉間にくっきりと深い皺を刻みこみ、敵と対峙するように険しい顔つきで、目の前の男にジワリジワリと間合いを詰められ、部屋の隅へと追いやられながらどうにか逃げ道を探していた。

こめかみにイヤな汗が一筋つたった。

 恐ろしい。

悔しいことに脳裏に浮かぶのはその一言。膝がガクガク震えそうになるのを懸命に堪えた。目先の恐怖に慄きながらも、持ち前の強気でそれと健気にも向かい合っていた。強い瞳が男を見上げる。
「――お遊びが過ぎるんやないか?」
 今まさに自分を組み敷かんとしている大柄の男に向かって、自身が持ち合わせている最大限の威厳を持ってひよ里はその男の名を呼んだ。


「…藍染副隊長――」


 男の口元が、ニヤリと歪む。

「お遊び、とは心外だな。猿柿副隊長」

「――――ッたッ」

 気がつけば背中が冷やりとした。すぐ後ろにはもう壁があって、もうそれ以上後ろには逃げることが出来なかった。そのことが良くわかっている惣右介はゆっくりと膝を折り、ひよ里と目線が合う所までしゃがみ込むと、ひよ里の細い両手首を片手で持ち上げ、抵抗出来ないようにそのまま壁に力を込めて押さえつけた。痛みが走り、顔を顰める。

 心外、と言う割には、やけに楽しそうに嘲笑うその顔に憎悪する。

 惣右介を睨みつければ、そのぶんキリキリと手首を締めあげられた。笑みを浮かべる男の瞳は、決して笑っていない。

 この状況下でなお、どこかに活路を見出そうとするひよ里を面白そうに惣右介は眺めていた。

 ただ、冷たく、凍るような瞳で。