彼と彼女と私と髪留め 4

 


 真子は、ここ最近のうちの様子をずっと気にかけていたらしい。関わらないように距離を置いていたうちのことを。

『まぁこういうのの一つでもやったら機嫌治るか思って。なんか癪やけど、調子狂うねん。あいつがあーやとなぁ。ほんま難儀なやっちゃで』

有栖川に死神でいることを認めさせてくれたお礼がしたいと申し出た間島を連れて髪留めを選びに行ったときに、真子がにそう零していたそうだ。

面倒くさげに言う割に、真子は一生懸命髪留めを選んでくれていたらしい。

三つ程候補を選んで悩んで。一つに絞ってもまた迷って。

そうやって決めたのが、うちが投げ返したあの髪留めだった。










「うわ! 寝とった!」

 口の端にたれた涎を手の甲で拭いながら寝台から顔を上げると、窓からは黄金色の夕日が差し込んでいた。寝台の覆いに自分の涎が落ちていないかをそわそわとした気分で確認する。取りあえず何も付いていないことにほっとすると、まだ眠ったままの真子の顔を見た。うちは真子の様子を確認したらすぐに出て行くつもりだったのに、いつから居眠りをしていたのだろうか。

あれから更に二日経っていた。

今日は早出だったから昼で上がり、その足で四番隊の救護室に真子の見舞いに行った。

いい加減目を覚ましてもいい頃なんですけどね。霊圧の状態を鑑みながら四番隊副隊長は言っていたけれど、真子はひとつも目を覚まさない。今にも起き出して憎たらしい笑顔をうちに向けて「なにしてんねん」そう言ってうちをおちょくりそうなのに。無性に悲しくなってしまって、真子の寝ている寝台に顔を押し付けて込み上げてくるものを堪えていたら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

(アホやな、うち)

 自嘲しながら、一度木目の目立つ天井を仰ぎみて、すぐに眠ったままの真子を見下ろした。

彫の深い顔が、気持ちよさそうに眠っている。厚めに切り揃えられている前髪のせいで普段は覗くことのない額が露わになっていた。

なんだか真子が幼く見える。頼りなく見えてしまって、少し不安になった。

「……真子」

呼びかけても、真子は何も答えない。瞼は固く閉じられたまま。聞こえてくるのは規則正しい寝息だけ。

このまま眠ったままだったらどうしよう。――まさかそんなことあるはずないけれど、嫌なことばかり考えてしまう。

うちは真子にまだ何も言えてない。ごめんねも、ありがとうも。自分の胸の内に抱えたままの気持ちだって伝えてない。

「あんたが目ぇ覚ますのみんな待ってんねんぞ。惣右助とか三席が役に立たへんから隊務に忙殺されてんねんぞ。わかってんのか」

 少し声を荒げてそんなことを言ってみたところでピクリとも反応しない。あまりにも無力な自分が悔しくてうちは唇を噛みしめた。目頭が熱い。

真子に何もしてやれない。そばに居るだけで何もできない。普段は副隊長の肩書背負って、隊士に説教垂れてるくせに。死神の力だって持ってるのに、こんな時にはなんの役にも立たない。真子が自ら起きるのを待つことしかできない。

 間島はうちに憧れるなんて言ってたけど、かいかぶってると思う。素直じゃないし。優しくもないし。口を開けば憎たらしいことしか言えないし。勝手に嫉妬して酷いこと言って、何も考えずに人のこと傷つけてばかりで。そのくせ弱虫で。泣き虫で。こんな自分、最低だ。大っ嫌いだ。

そんなうちに、真子はいつだってきちんと向き合おうとしてくれるのに。

あの時だって、向き合おうとしてくれたのに。

それなのに。

「ごめんな」

 目を覚ましてくれるなら、いくらだって謝るから。

「ごめんな、真子」   

 許してほしいなんて言わないから。

だから。

「――目、開けてや」

 一粒だけ、熱いものが頬を伝った。

 あかんな、うち。絶対、泣かんとこうって決めてたのに。

 死覇装の袖口を使ってごしごし目元をこすって涙を拭いて、袂からちり紙を取り出して鼻をかんだ。息を吐くと泣いてしまったせいか喉の奥が苦しかった。

 きっと今のうちは酷い顔をしてる。こんなの人に見られたら、なんて思われるだろう。うちは恥ずかしさで立ち直れないかもしれない。取りあえず顔を洗いに行こう。そう決めて椅子から立ち上がった、その時だった。

「寝てるやつの隣で鼻かむな、ボケ」

 懐かしい声がした。

 腹に力が入らないのか、ずいぶん掠れて力のない声だったけど、間違いなくあいつのものだった。

真子の、声。

 信じられないような気持ちで顔を見れば、呆れたような、やる気のないようないつもの顔で、顔を少しだけこちらに向けてうちの方を見ていた。思ったよりもしっかりと力のある瞳をしている。

 良かった。本当に良かった。何度も心の中で呟いた。

「……起きたんか」

 驚きと嬉しさからか、自分の声が震えていた。真子はわずかに顔を縦に動かし頷いた。今起きたのかと尋ねると、首を振って違うと首を振る。

 じゃぁ、いつから?

「お前が、そこで寝てるとき」

 トントンと、左側の手だけを動かして、うちが寝ていた場所を指し示す。

 そんなに前から。気が付かなかった。

「お、起きたんやったら、言えや。ハゲが」

 嬉しいくせに。ああ。ほらまたいつもの可愛らしさの欠片もない言葉。だけどそんな言葉に真子は目尻に皺を作ってくしゃっと笑った。

「お前鼾かいとったぞ」

「鼾なんぞかいてへん」

「いーや、かいとった」

 もう一度否定しようと思ったら、大きな手がうち手首を掴んできて真子は自分の方へと引き寄せた。今の今まで意識の戻らなかったヤツとは思えないほどの力で引っ張られ、うちはなされるがまま、椅子に座り直す格好になった。どうすればいいかまったくわからなくって固まってしまう。掴まれた手首が熱い。

「しょーがないやっちゃなぁ」

 困ったように笑う真子の顔。何がしょうがないのかわからないけどしみじみと呟くように言った真子の声が馬鹿みたいに優しい。手首を掴んでいた手が頭の上にそっと乗る。子供をあやすみたいに撫でるから、喉の奥がぎゅうっと苦しくなった。

 真子に気遣われているのがわかった。何もこんな時に、うちのことなんか気遣わなくたっていいのに。

 あほやな、こいつ。

こみあげてきた涙のせいで目の前に居る真子の顔が滲んで歪む。

 ――あかん。泣きそう。

 少しでも気が緩めば、また涙がこぼれそうで、そんなのはずるい気がしたからうちは自分のほっぺたを両手で根限りの力を込めて左右に引っ張った。結構痛い。よっぽどひどい顔になったのか、真子は目を一瞬丸めて、それからすぐに噴出した。

「なにしてんねん、えらい変な顔になってるで」

「ええねん。顔の筋肉、解してんねん」

 誤魔化すように、顔をムニムニ引っ張る。痛みで涙は引っ込んだけど、察しのいい真子にはバレバレだった。

「今更泣くの我慢してもみたし」

「みたんか!」

 恥ずかしさで頬がカッと熱くなる。

「しんじぃぃ。めぇあけてぇぇ。……って、泣いてたやろ?」

「そんなん言ってへん!」

「言うてたって」

 真子はニタニタ意地悪な顔を作って歯を見せる。覇気のない声をしているくせに見事にイラつかせてくれた。まだ痛むだろう傷口めがけて軽く拳をあてがうと、さすがに真子は焦ってやめろと訴え始めた。

「け、怪我人やぞ。労われボケ」

「労わってほしいなら、アホなこと言うな、ハゲ」

「言うてたやんか。聞いたぞ、この耳でちゃんと」

「そんなもん幻聴や! あと泣いたように見えたのも幻覚や」

「んなわけあるかい」

 他愛もないやり取りが懐かしかった。ずっと無かったこの時間が、うちは何よりも好きだったのだと改めて感じた。

 一瞬のためらいの後、うちは自分から言った。

「ごめん」

「……?」

 変な緊張で、膝の上に置いた手が湿る。恐る恐る真子のようすを見ると、何のことだかわからないような感じで、ポカンとうちの方を見上げていた。あんまりにも不思議そうにしているから、どうして謝ったのか説明した方がいいのだろうかと考え始めた頃、ようやく理解したのか口を閉じて真顔になった。ふざけた調子がどこにも伺えなくて、少し怖かった。

「……ごめん」

「白や桐子には」

「言った。謝った」

 うちから視線を外し、真子は天井を見る。

「なら、ええやろ。その話は終いや」

「ええことない。うち」

「ひよ里」

 うちの名前を呼んで話を遮った。ひとつも力の籠ってない声だったのに、うちを威圧するには十分だった。

「まだ、オレ本調子やないし、もう少し寝ときたいから出てってくれへんか」

 もう何も話をしたくないと言外に伝えているのだと思った。一瞬でも元に戻れたみたいに感じた自分の浅はかさを呪う。

真子が怒っていないはずが無いのに。何を期待していたんだろう。

握りしめている拳にさらに力を加えると、皮膚に爪が食い込んでピリリとした痛みが走った。

「真子。……すぐに、出ていくし。何も言わんでええから聞いとって」

 ただの自己満足だろと指摘されれば、何も言えない。謝ればいいとも思わない。でも、ここで何も言わなければ、うちは絶対に後悔するだろう。

 真子はダメだとも良いとも言わない。それをいいことにうちは、言い訳みたいな言葉を並べていく。

「うち、あんたと、間島桐子の噂聞いて、勝手に誤解しててん。あんたと間島が二人でおるところ何回か見たし、他のみんなも見かけた言うてたし、親密そうやったし。二人とも、その、そういう仲なんやって、あんたや間島に確認もせんとそう思い込んでた」

 手を開くと拳を作っていたせいで掌がじっとりと汗ばんでいた。その手で今度は黒く染められた袴を握りしめる。

「いややってん。どう言うたらええかわからんけど。あんたにも間島にもやたらイライラするし。わけわからんくって。自分でも。あんたンこと避けてたのも、そのせいや」

 ふうん。真子はどこか遠いところを眺めていた。その横顔からも声色からも何を考えているのかは読めない。

「か、髪留めも、嬉しかってん。せやけど、それも間島に買うてやったついでか思って……」

「それやったら普通、違うもんにすると思わへんか?」

「わからんけど、冷静になって考えてみたらそうやとも思った」

「短気は損気っちゅう言葉知ってんか?」

「……うっ」

 瞳だけを動かしてちらっとこちらを見た真子に若干むっとして押し黙る。真子やってどちらかと言えば短気やろが。言いかけた言葉を飲み込んだ。

「そんでうち、腹立って。あんな酷いこと言うたり、したりした。……謝ればええとも思ってないし。せやけど、言わんとあかん思って……」

「なんやそれ、ヤキモチか」

 冗談半分なのか真子にそう聞かれ、少し返事に困った。ヤキモチなんて可愛い表現が似合う感情では無かったと思う。どちらかと言うと、嫉妬と表現する方が適当のような。

「……そういう感じ……かもしれん」

 素直に頷くと気持ちがバレバレで恥ずかしいので、曖昧に答えると、真子は何の感情も込めずに相槌を打った。居た堪れない気持ちになる。

ほんまにごめん。

もう一度謝って、うちは椅子から腰を浮かせる。取りあえず自分が言いたいことは全部言ったし、何より真子はまだ休ませてくれと言っていた。早く立ち去った方がいいのだろう。音を立てないように静かに立ち上がったつもりが、ひざ裏が座枠に当たったせいでギギッと耳障りな音を立てて椅子が後ろに下がる。余所を向いていた真子が頭を動かしてうちを見た。怒ったような顔だった。頬は少し高揚しているのか赤らんでいるように見えた。

「どこ行くねん」

「出て行けって、さっきあんたが言うたやんか」

「そうやけど、勝手にどっか行くなや」

「なんやそれ」

 言ってることがめちゃくちゃだ。いつもならここでひと蹴り入れてるところだけど、一応彼は怪我人。しかも自分はついさっき謝罪を口にしたばかりの立場。ここから出て行くことも、また椅子に座り直すこともできずに、うちはその場に立ち尽くした。

 気まずくて真子から顔が見えないように顔を背ける。肩口に浴びる真子からの視線が痛くて、落ち着かない。ここから早く立ち去りたい気持ちになった。

「アレは、いらんわけやないんか」

 アレとは、恐らく髪留めのことだろう。

「違う」

 そんなわけない。欲しかった。

「気に入らんかったとか……、」

 ぶんぶん。首を思いっきり振った。

気に入るだとか気に入らないとか、それ以前に。

嬉しかった。本当に、嬉しかったんだ。なのに、あんなことしてしまって。

皺になるほど両手で袴を握りしめる。

「後悔しとる」

「……なんで?」

 真子に真顔で問われて、少し考えてから言った。

「真子からああいうのもらえるなんか、あれが最後やったかもしれへんのに、うち、あんなことして」

「そんなん、欲しいってい言えば誰か買うてくれるやろ。ローズやラブや拳西かてなんやかんや言うてお前には甘いんやし。喜助やってお前にしょっちゅうあんみつ奢ってるやんか」

 せやから、別にオレから貰わへんでもええんやないんか。どうでもええことやろ。

真子は片方の口の端を吊り上げて自嘲する。

 違う違う。どうでもよくない。

「他の誰かからやったら意味ない。嬉しいけど、違う。真子からやったから」

 嬉しかったし。つらかった。苦しかったんだ。

「ほんまに?」

 うちは頷いた。まるで告白でもしているみたいで恥ずかしかったけど、そこだけはわかって欲しかったから。

 頷いたうちを見て真子は、ああ、そう。とだけ返事をした。怒ったような横顔からはきちんと伝わったかどうかはわからない。

 窓から差し込んで掛布団に落ちていた黄金色の日の光は、知らないうちに消えて無くなっていて、部屋の中が薄暗くなっていることにようやく気が付いた。夕日はもう沈んでしまったのだろう。薄暗くても真子の顔がよくわかるのは、夜目が利くせいか、だんだんと暗くなった為に目が慣れてしまったせいか。どうせなら真子の考えていることだってわかることができればいいのに。

「真子、うち、行くわ」

勝手に行くなと言われたから、今度はきちんと出て行くことを伝えた。

たぶんもうすぐ見回りの隊士がやってくる。もしかしたら真子の霊圧の変化に気が付いた卯ノ花サンが来るかもしれない。あとは、彼らに任せよう。

「長居してすまんかったな。たぶんじきに誰か来るし、そいつの言うこと聞いてゆっくり休みや」

「……」

「ほなな、お大事に」

 真子が寝ている寝台とうちとの距離は離れているからさっきみたいに手首を掴まれることはもうない。後ろ髪を引かれる思いでうちは出入り口の方へと歩いていく。

 たぶん、呼び止められることはないだろう。

 無いと、思っていた。

「ひよ里!!」

 真子が目を覚ましてから初めて大声を出した。叫ぶに近いかもしれない。見れば真子は、肩肘をついて無理やり上半身を起こそうとしていた。痛むのか顔を顰めている。

 考えるよりも先に声が出た。

「アホか! 何してんねん!」

 駆け寄って起きようと抵抗する真子の身体を布団へと押し鎮める。

「傷口自体は塞がっとるけど、完治しとるわけや無いんやで!? 何考えてんねん! アホちゃうか!」

「世話無いわ」

「この、ドアホが!!」

 フンと鼻を鳴らして平気だと言う真子に本気で腹が立った。寝台に片膝を乗せて真子が着ている白い着物の襟を乱暴に掴と、感情的になって捲くし立てた。

4日間も寝たまま起きへんかったくせに、世話無いわけないやろ! どんだけ皆心配してたと思ってんねん。どんだけ……、」

 喉が苦しくなった。それでも声を絞り出す。

「あんたどんだけ傷だらけで、血ぃ流してここに運ばれた思ってんねん。死んでまうかもしれへんって言われてたんやで!? それわかってんのか? うち、聞かされて、めっちゃ怖かった。血だらけやし、顔は死人みたいに真っ白やったし。ひとつも動かへんし。あんた、おらへんくなったら、どないしょうって。……もしそうなったらうちのせいかも知れへんって」

「なんでそうなんねん」

 うちの剣幕に、真子はやや引き気味。冷静に返された。

「やって、うち、真子に『虚に喰われてまえ』言うた」

「それで死ぬか」

「やって言霊は怖いって曳舟隊長が言うてた」

「そらお前の口が悪いから脅したんやろが。迷信や。迷信。そんなん信じとるからガキや言われんねん」

 馬鹿にしたように目を細めてうちを見る真子にカチンときた。

「あんたやって、うなぎと梅干は一緒に食われへんやんけ。腹が痛くなるから言うて」

「あほか。そりゃ迷信やのうて、食べ合わせの問題や。ちゅーかいったん手ェ離せ。苦しいッちゅうか、痛い」

「あっ……、」

 手をポンポンと軽く叩かれてハッとした。横になれと言っていたのに、襟首を持って真子の身体を半分起こしかけていた。謝って手を離し、寝台の上に置いた足を床に下す。

昂ぶっていた気持ちが落ち着いた頃、真子は言った。

「心配、したんか」

「……した。めっちゃした」

 頷くと、真子は頭だけ動かして余所を向いた。

「そら、悪かったな」

「別に。謝らんでも」

「そうやけど」

 はぁ、と大袈裟なくらいのため息をすると、少し考えるようなしぐさをして、

「……なんかいるか?」

 と、聞いてきた。

「は?」

 突然の提案に、うちは意味がよく理解できず聞き返す。

「いや、せやから。心配かけたお詫びに、なんかやる言うてんねん」

「……、」

「いらんのやったら別に」

「いる! あの髪留めが欲しい」

 ――ええけど、という真子の声に被せるように言った。

 ずうずうしいのはよくわかっていた。もしかしたらやっぱり捨ててるかもしれない。それでも。

「あの髪留めがええ」

 あの髪留め以外、うちには考えられなかった。真子が一生懸命選んでくれたっていう、あの髪留め以外には。

「それで、ええんか」

 うん。それが、欲しい。

「あいつと、桐子と色違いやど」

うん。わかってる。

「それでもええから」

「なら、今度やるわ」

「持ってるんか」

「隊主室にな。ほんまは捨てるつもりやったけど」

 ふて腐れたような顔をして、真子は鼻を啜った。

間島の言った通り、真子は持っていた。

「せやけど。またイラン言うたら、今度は捨てるし。もうなんもやらんからな」

「……っ! うん。わかってる。おおきに」

 おおきに、真子。

うちは頭をぶんぶん振った。胸の中がいっぱいになって泣いてしまいそうだったから、また頬を力いっぱい両手で引っ張る。引っ張りすぎて痛くて我慢するはずだったのに眦には涙が溜まる。うちの顔を見た真子は、怒ってた顔を緩ませた。

「なんちゅう顔してんねん。ぶっさいくやぞ」

「うるひゃい」

 頬をつまんだ手を離すように真子は手を伸ばし、やすやすと払いのけた。

 パタ。パタ。

 眦にたまっていた涙が零れていく。

「ひよ里の泣き虫」

うるさいわ、ハゲ真子。

負けずに言い返そうと思ったけど、それは声にはならなかった。

今更ながら真子が目を覚ましたことへの安堵感と、それまでの不安だった気持ちが洪水のように胸の中に押し寄せた。

熱いモノが頬を伝ったのがきっかけになって堰を切ったように溢れ出す。

 

ごめんねごめんね。

ありがとう。

生きててくれてよかった。

目を覚ましてくれてよかった。

それから、――大好き。


湧水のように溢れる涙はいっこも止まらない。

唇を噛みしめて、声を上げて泣いてしまいたい衝動を必死に堪えた。

真子は困って、泣くなと何度も言った。それでもうちが泣き止まないから、今度は腕を引いて近くに寄せる。涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった顔を、汚いなぁ、と笑いながら真子は着物の袖口で少し乱暴に拭って、うちの頭を抱き寄せるように肩口の方に持っていった。

ものすごく不自然に前かがみになる。着物を掴んで寝台と真子の肩に体重を預けるようにした。

鼻の頭に当たった布からは、真子の優しい匂い。

頭にある大きな手はやっぱり子供をあやすみたいにゆっくりと撫でていた。

 











「虚もそうやけど、なんで結界張ってんのに、子どもが侵入したんや? 新人にでもさせてたんか?」

「いいや、要に張らせてたんやけどなぁ」

瀞霊廷の中にあるお茶屋で、真子とうちは真新しい死覇装に身を包んで、向き合って座っていた。

「拳西んとこの?」

「せや。ギンは要より各上の三席や言うてもまだまだ新人の域やからなぁ」

「ふうん。ちゅーかなんでそんなん三席にしたんや」

「大人の事情や。いろいろあんねん、こっちにも」

「五番サンはややこしいなぁ」

「十二番サンに言われたないですなぁ」

 お茶を飲み、雑談を交えつつ話しているのは、演習中に起きた虚襲撃事件のこと。あまりにも不可解だったので、作為的なものがないか、また別の異常がないか五番隊・九番隊合同で調査依頼が十二番隊に出ていたので実務的な報告も兼ねていた。拳西への報告はすでに済んでいる。

「お前んとこの調査の結果は?」

「何にも出てけぇへんかったわ」

 十数枚にも及ぶ調査報告書を狭い机の上に広げる。しかし、どの書類にも不審点は無く、『異常なし』としか書かれていないから説明のしようが無かった。

「せめてまき餌の痕跡でもあればそこから辿れるって喜助も言うてたんやけどな、なんもないねん」

「そうか、技局でもわからへんのか」

「すまんな」

「や、ええねん。ええねん。なんも出てけえへんのやったらしゃーないし」

 手をひらひら振って気にするなと言った。しかし、うちは首をひねる。

「気色悪い事件やな。大虚級の虚が何体も発生してんのに、ひとつも異常もないとか」

「んー、せやなぁ」

 腑に落ちないのだろう。真子は眉を寄せて、お茶をずずっと音を立てて啜った。

数日にも及んだ調査も、何の成果もあげられず打ち切られた。普段安全だからと使っていた演習場所にあれだけの虚が出ればなにかしらある筈なのに、何をどう調査しても不審点は何一つ出てこなかったのだ。普段ヘラヘラしている隊長の喜助が珍しく真顔でそんなはずはないんすけどね、と納得した素振りを見せなかったのだから、やっぱりどこかおかしい事件だったのだろうと思う。打ち切られた今となってはもう調べようもないのだけど。

終わってしまったことを二人で難しい顔をして考えるのもなんなので、うちは話題を変えた。

「そうや。あんた、傷はもうええんか?」

「もうほとんど痛くないで」

 真子もそれを察したのかいつもの間抜けっぽい顔つきに表情を戻して、「大丈夫。大丈夫」と傷があった場所を着物の上から撫でる。

「ちゅーか、子ども庇って瀕死の怪我とか、何してんねん。ドジッ子か。いやドジッ子の域とちゃうな」

「しゃーないやろ、ほんま突然やってん」

「死にかけるとか、ありえんやろ」

「子ども見殺しにするよりはましやわ。後味悪すぎる」

「そりゃそうやけど……。あ、その子ども、うちに似てたんやって?」

 苦虫を噛み潰したような顔をする真子に、うちはニヤニヤ茶化す。

 実は後から拳西に聞いたのだが、真子が助けた子どもはどことなくうちに似ていたらしい。本当かどうかは知らないけれど。

「はぁ? もうそんなん覚えてへんわ」

「たぶんその子どもも、うちみたぁに、可憐でかわええこやったんやろな」

「アホか。自分で鏡見てから物言え、ひよ里」

 ガスっと机の下で真子の足を蹴り飛ばした。

「いたぁ! このボケが。その髪留めやっぱり返せ」

「あかんわ。一度もろうたもんは返せませんなぁ」

 手を伸ばして髪留めを取ろうとするから、べぇっと舌を出して髪留めを両手で押さえて取られないようにする。頭にあるキラキラ光るのは真子から貰ったあの髪留めだ。

 あれから真子は暫く療養を言い渡されたのに、寝たままは性に合わないと言って無理やり隊に復帰して卯ノ花サンを呆れさせた。真子が復帰すると隊もすぐに落ち着きを取り戻したから、こいつが隊長としてどれだけ必要とされていたのかは他隊の自分にもよくわかった。

髪留めは真子からすぐにもらうことができた。気恥ずかしいのと、仕事中になくしてら困るので普段はつけていないけれど。

今日つけているのは特別な理由があるからだ。

「さて。そろそろ行くか」

「あ、もうそんな時間か?」

 少しだけ緩んだ襟元をピッと整えると真子は立ち上がる。

 今日はこの後あの間島桐子の祝言が有栖川邸で行われる。護廷十三隊の隊長格は全員出席なのだ。死神の正装は死覇装。黒染めで全く面白くはないけれど、真子がくれた彼女と色違いの髪留めをつけてきた。あんなことがあっても自分を尊敬していると言ってくれる彼女の祝いの席に出席できることはとても嬉しいことだった。

 うちは広げた書類をガサガサとかき集めて持っていた手提げ袋の中に雑に放り込んで立ち上がる。

「な、髪、おかしくないか?」

 いつもより念入りに髪をとかして丁寧に結んだけれど、それが崩れていないか気になる。あと、せっかくくれた髪留めが似合っているか、とか。

「別に」

 なのに真子はえらくそっけなく答える。

「か、か、髪留めは?」

「別に」

 別にってなんだ。要領を得ない言い方にもどかしくて、はっきり言えと言うと、

「まぁまぁちゃうか!」

「まぁまぁって!」

 うちの分のお茶代と一緒に乱暴に机に置くと、真子はさっさと店から出ていく。うちはそのあとを小走りで追いかけた。いつもよりも早足で歩く真子。いらっとしてとび蹴りをしようかと思ったけれど、この後のことを考えると着ているものが汚れてしまうのはまずいのでそれはやめて、こいつの目の前に回った。

「なんでさきさき行くねん!」

 むっとして真子の顔を見上げれば、なんだかやたら赤かった。……具合でも悪いのだろうか。

「熱か! 真子」

「なんっでやねん! どこまで天然やねん、お前は」

「やって、顔が赤い」

「これは、やな!」

 あああああ、もう!

 もどかしげな唸り声を上げた真子はうちのほっぺたをむにっとつかんで横に引っ張った。痛くはない。

「にゃにひゅんねん」

「お洒落さんのこの俺が、お前にって選んだんや。似合わんわけないやろ」

 自分で言いおったこの男。お洒落さんって。

呆れたけれど、そのあとの言葉がうれしくてうちはつい破顔した。真子は口をへの字に曲げて怒ったような顔でつまんでいた頬を離すと、うちを無視して、またずんずんと歩きはじめる。

つかまれていた頬が熱いのは気のせいじゃなく、赤くなっているのだろう。真子みたいに。

(――真子みたいに?)

 そこまで考えて、あっ、と思った。

 もしかして、真子は照れているのだろうか。うちみたいに。

 そうだと、いいな。

 そうだと、うれしい。

 突っ立ったまま動こうとしないうちに気が付いて真子は足をとめる。

「何してんねん、置いてくぞ! ひよ里」

「行くわ、ボケ!」

雲一つない澄んだ青空の下、勢いよく地面を蹴ってうちを待つ真子のもとへと駆け出した。

 

 いつか、伝えることができるだろうか。

 この胸にある大切な気持ちを、彼に。




end

  



☆様からのリクエスト小説
 約4万4千字弱のお話にお付き合いいただきありがとうございました。☆様には素敵ネタをご提供いただきまして、ほんとうにありがとうございます。お気に召されない点がございましたらお申し付けください。
さて。『彼と彼女と私と髪留め』はこれにて了となります。え? くっつかないの? と消化不良の方がいらしたら申し訳ない。まぁ、たまにはこんなのもありかと。ちゃんとくっつけて! というリクエストがあればこれの続編も考えるかもです(ん? お腹いっぱい?)。ちなみに虚の事件は演習に市丸君と東仙君が居る時点でああと思われたと思いますが、藍染様の仕業です。だから平子さんは隊にすぐに戻ろうとしたし、異常なしにももちろん腑に落ちていません。市丸君に結界を張らせずに東仙君に張らせていたのは、市丸君より一応東仙君の方を信用していたからです。…という裏設定ありけりです。あと、平子君がひよりんに投げ捨てられた髪留めを女々しく(!)持っていたのは白に『持っておけ』と念を押されたためです。言われなくても案外持ってたかもですが。
 そしてここから、この平ひよたちはお互いなんとなく気持ちに気づいてる『友達以上恋人未満』な感じになってさらに周囲をやきもきさせると思います。二人っきりになってお互い意識し合うのもよし。またヤキモチの焼きあいをするもよし。いろいろとたのしそうだなー。青春だわ。
2012.07.13