『良いことを言えば、良いことが起こって、不吉なことを言えば、不吉なことが起こる』 言霊。 言葉には魂が宿ると、教えてくれた人がいた。 言葉は怖い生き物やから、自分が喋る言葉には気をつけなあかんのや。 無知なうちはそんなのは迷信の一つだと、あははと笑った。 いつまでたっても本気にしない自分に、あのな、ひよ里、うちの手を握りあの人はいつもと変わらない笑顔を浮かべて言ったのだ。 いつかわかる時がくるわ。でもその時後悔しても遅いんやで、――と。 今だってそんなもの本気で信じているわけじゃない。 だけど、もしもの話。 もしも、本当に言霊というものがあったとするならば。 真子が今、こんなことになっているのは、もしかしたら死んじゃうかもしれないのは、きっとうちのせいだ。 うちがあんなひどいことを言ったからだ。 ※※※
平子真子は護廷十三隊のうちのひとつ、馬酔木を隊花とする五番隊を預かる隊主だった。 うちと真子はいわゆる腐れ縁というやつで、気の置けない仲間の一人だ。会えば何かしらで喧嘩に発展してしまうので喧嘩友達ともいえるかもしれない。そんな仲だから色のついた話なんてうちらの間には一つもないし、真子はうちのことを女と認識しているかもあやしい。だいたい、うちはその辺に居る可愛らしい女の子とは縁遠い人種だ。ちょっとくらいは可愛く見られたいという人には絶対に言えない乙女心で、髪の毛を伸ばして二つに括ってはいるけれど、すぐに悪態つくし、短気だし。口を開けば憎まれ口ばかりで、手も足も早くてガサツ。こんなんじゃ女の子扱いなんかされなくても当たり前かもしれない。 頬にあるそばかすと、八重歯は幼さを主張してくれて、いつまでたっても成長しない胸と身長のせいで、十二番隊の副隊長兼技術開発局研究室長という御大層な肩書はあれど、子ども扱いされることばかりだった。 真子は口では「ガキやな」とか言うけれど、うちと同じ目線でものをみてくれるやつだった。他の仲間みたいにアホとか言われても、取り合わなければ済むはずなのにわざわざ本気でうちに言い返してくるし、取っ組み合いの喧嘩だってしてくれる。腹の立つことも言われるし実際ムッとすることも多いけど、あいつと喧嘩をしている時間が実は大好きだった。正確に言うと、真子のことが、好き――だった。 うちが真子のことを好きでも、あいつがうちをそんなふうに見ていることはない。副隊長として認めてくれてるとは思うけど、あくまで仲間だ。喧嘩友達。それが自分たちにはよく似合ってるし、それでいいと思っていた。思いを告げて変に気まずくなってギクシャクするくらいなら、何も言わないほうがましだ。年頃の女の子が持て余す恋心なんて死神を生業とするうちにとっては正直邪魔なだけだったし、考えなければそれで済むこと。そんなものに振り回されたくもない。 ……なんて強がってみたりするけれど、本当の所はあいつに伝える勇気がないだけで、意気地なしなだけだった。 今の関係がずっと続けばいい、と思っていた。 この関係はぬるま湯に浸かっているみたいに気持ちがよかったから。今のままでもうちは十分幸せだと思えていたから。傷つくことだって、傷つけることだってきっと無いだろうから。 だから、何も変わらないでほしいと思っていた。 でも。 自分がどれだけ繋ぎ止めておこうとしても、どれだけ変わらないでいたいと願っていても、どうにもならないんだ。
うちがいつも楽しみにしているのは昼休憩だった。隊務に忙殺される副隊長にとって、午前と午後を繋ぐ半刻ほどの休み時間は、とても貴重で。その貴重な時間を一緒に過ごすのが八番隊副隊長・矢胴丸リサと九番隊副隊長・久南白だった。自分の所の隊長の愚痴を面白おかしく吐き出して笑いあって、おいしい昼食に舌鼓を打ち、午後からまた始まる隊務への英気を養うのだ。もちろん女の子同士、趣味も年も違うけど仲が良いから、恋の話だってする。 そんなささやかな幸せをかみしめる時間だったのに、急に水を差されることになろうとは、この時まで思わなかった。 ――平子隊長に彼女ができたかもしれないんだって。 この日も、昼休憩に定食屋で女性限定御膳とやらを口いっぱいに頬張りながら雑談をしていた。どこからともなく急にそんな言葉が聞こえてきて、一瞬ドキッとしてうちら三人は思わず顔を見合わせた。 隊長格の色恋話は一般隊士たちにとって酒の肴のようなもので、誰と誰はできているらしいと噂することはよくあることだ。くだらないので噂話をする側には回らなかったが、うちも死神になりたての頃は平隊士だったので当時の隊長たちの噂話は耳にタコができるほど聞いたことがある。ついでにいうと自分だって今十二番隊の隊長である浦原喜助が着位して間もない頃、猿柿副隊長は浦原隊長のことが好きらしい。だとか、根も葉もないことを噂されたことがあった。人の噂も七十五日という諺の通り、そんな噂もすぐに消えてしまったけれど。 そうとはいえ、やっぱりいい気持ちにはならない。リサも白もうちと同じようにどうでもいいやつと噂を立てられてこともあって、またか、と他人事とはいえくだらない噂に顔を大いに顔を顰めていた。しかし副隊長の腕章をつけている自分たちが平隊士の噂話にいちいち目くじらを立てるのも、あほらしい。普段ならそこは聞かなかったこととしてスマートに受け流すのがうちらの常だったのだが。 「ちょぉ、そこの子ら。あんましあることないこと言いなや。言うんならせめてうちらのおらんところで言い」 うちが真子に好意を持っていることを、直接的には言っては無くても薄々気が付いている二人が察してくれたのだろう。もしかしたら、結構ひどい顔をしていたのかもしれない。リサがたしなめるように隊士たちに向かって言い、白が無言のまま彼女らを見る。噂話に花を咲かせていた彼女たち三人は副隊長であるリサたちの静かな迫力に気圧され、ばつが悪そうな顔をしていったんは謝った。……のだが、意外に怖いもの知らずだったのかそのまま引き下がらずに「でもぉ」と続けはじめたのだ。噂好きそうな女独特の粘っこい喋り方で。 「今回の話はちょっと信憑性があってぇ」 「そうなんですよぉ。私も見たんです。平子隊長が藍染副隊長も従えずに同じ隊の……、えーっとどなただったっけ?」 「ばか。間島七席だよ。間島桐子第七席。あんな綺麗な人どうして忘れられるの?」 「だってぇ。あ、それで、間島七席と二人っきりでとっても親密そうに話をされてて」 「その様子を見かけた隊士結構いるらしくって。この間なんか間島七席が泣いてるのをそっと慰めてたとか、ねぇ」 「そうなんですよぉ」 キャアキャア黄色い声を上げて馬鹿みたいに喋る彼女たち。リサはくだらないと切り捨て呆れていて、白はふーんと特に興味もなさげ。うちも内心辟易としていたけど、自分が知る限り恋仲の相手はいないはずの真子に、ここまで内容のある噂は初めてのことで少し動揺していた。しかも、間島七席といえば、護廷十三隊の隊士の中でも十本指に入るほど美人で器量よしということもあり、男性死神たちにも人気がある。研究馬鹿の喜助も滅多にそんなことを言わないのに、綺麗な人っスねぇ、と彼女を見て思わず呟いたくいらいだ(たまたま横に居た二番隊隊長に足払いを喰らっていた)。 他隊の隊士だから話をしたことは本当に数えるほどしかないけれど、確かに感じのよさそうな女性だった。自分と違って綺麗な薄茶色のまっすぐな髪の毛からは、いい匂いがして、柔和な笑みを湛える彼女は背も高めで、女性らしい体系。真子と並べば確かに絵になるかもしれなかった。 そんな二人が頻繁に一緒に居るところを見かけられれば、噂が立ってもおかしくないのかもしれない。自分が真子と一緒に居たところでそんな噂なんてたちもしないけれど。そう考えると胸の中に靄がかかっていった。 噂話を無理やり終わらせたリサと白はうちに何か言っているようだったけど、ああ、だとか、うん、だとか、うちは空返事だけを返してあとはうわの空。話の内容も大半が右から左に通り過ぎて行って、覚えていない。女性御膳についてくるおまけの甘味は、大好きなのあんみつだったのになんだか食べる気が失せてしまって、まだ物欲しそうにしていた白に全部あげて、うちは仕事がたまっているからと嘘をついて早々に隊舎に戻った。隊舎に戻ってからもいつもの調子は戻らず失敗ばかりやらかし、うちよりも席次が下の涅マユリには「使えない猿だネ」と罵られ、そのさらに下っ端の阿近には「邪魔だ、副隊長ならもっと仕事しろよ」と馬鹿にされ、あまつさえユルユル隊長の浦原喜助には「ひよ里さん、今日おかしいっスよ? もう上がってください」と心配され、技局から追い出される羽目になった。
三日ほど続いた雨が止んだ日の夜。月や星が久し振りに顔を覗かせた夜空のもと、七番隊隊長・愛川羅武や三番隊隊長・ローズこと、鳳橋楼十郎、九番隊隊長・六車拳西、それからリサと白と一緒に仕事終わりに唄酒場に繰り出そうと、瀞霊廷内を移動していた。梅雨時期で仕方ないとはいえ、じめじめした憂鬱な気分になりがちだから、そんなものは酒を飲んで歌でも歌って吹き飛ばして気分を上げよう! と、白が昼休憩中に提案したものだ。急な提案だったため声を掛けれなかったものもいたが、それなりの人数が集まるらしい。 この頃にはさすがにうちもいつも通りに戻っていた。その場にいたみんなとなんやかんやと雑談しながら歩いていた。 不意に頭の上から声が降る。 「おつかれさん、ひよ里」 「にゃっ」 真上から頭を掴まれ体重をかけられうちは、そのまま前につんのめりそうになった。頭を掴む声の主は、真子。おそらく気配を消して物陰からうちらをみていたのだろう。見上げれば、長い金色の髪を揺らしながら憎たらしい笑いをしていて早速うちをイラつかせてくれた。 「何すんねん、ハゲてんのか! はよ手ェどけろや!」 「隊長に向かってなんやねん、その口のきき方。あかんやろう? 平子隊長手ェどけてください、やろ?」 「なぁぁぁにが平子隊長や! 気色悪っ」 「気色悪いとはなんやねん」 「なにがやっ!」 頭に乗っかった手を力いっぱい叩いて払いのける。なにすんねん、痛いやろが。さっさと手をどけんのが悪いんや。手を乗せやすい位置に頭があるのが悪いんや。それはうちがチビや言いたいんか!? だいたいいつもこんな感じで言い争いを繰り広げる。最早それは挨拶代わりというか、お決まりというか、日常茶飯事で、その場に居る者は誰も驚くことはない。しかし誰かがそれを止めに入らなければ延々続くので、仕方なく仲裁役を務めるのが羅武だった。彼は慣れたもので、はいはい、そこまだ、と真子とうちの間に上手に割って入り、無理やり話を変える。 「最近忙しそうだな、真子」 「そやねん。うちの副隊長さんは人使い粗いよって」 「彼、真面目だもんね」 「真面目っちゃ真面目かもしれへんけど、いけすかんやっちゃで。敬語喋ってるけど、しれっと命令口調やからな、あいつ。しかもええ笑顔で。」 「確かになぁ」 「この間なんか、ちょっと居眠りしてたからいうて、シュンシュンのヤカン持って『隊長、起きてください(ニッコリ)』やで? 考えられへんやろ。あれは副隊長のすることやない」 「そりゃ、居眠りをするてめぇが悪い」 自分のことは棚に上げて副官の愚痴をこぼす真子に拳西が突っ込めば、そりゃそうだとみんなが笑う。彼自身もつられて笑ったところでようやく真子は面子が揃っていることに気が付いたらしい。 「みんな揃いでどこか行くんか?」 「唄酒場行くんや。あとで、春水サンや喜助も来るしな、しゃーないからあんたも誘ったるわ」 「惣右介も連れておいでよ」 うちとローズが言えば、真子は申し訳なさそうに掌を合わせた。 「あー、おおきに、せやけど、ええわ。これから用事があんねん」 「まだ仕事が残ってんのか」 「ちゃうちゃう。野暮用や。しゃーから惣右介を誘ったってくれへんか?」 すまんなぁと謝る真子に、じゃぁ仕方ないと頷いて、今度は誰が惣右助を呼びに行くかを相談し始めた。多数決でジャンケンをして負けたものが呼びに行くことになり、最初に勝って一抜けしたうちは、あいこで盛り上がるみんなを眺め、真子に話しかけてみることにした。 「野暮用ってなんや?」 「野暮用言うたら、野暮用やろ」 「あ、そ。言われへんことか」 「何ジブン、気になんのか?」 正直、気になる。けど、そんなこと素直に言えるはずもなく。 「別に。ただそうやって意味深げに言うからなんかあったんかと思ってな」 「ふうん」 「なんや?」 「いいや、別にぃ。……ってイタァ!」 ニタニタしながら真子がうちを見降ろしてくるから、つい拳を腹に叩き込んでしまった。あ、っと思うも、時にすでに遅し。真子は腹を押さえて前かがみになっていた。 これがいけない。どうして自分はこうも可愛げのないことしかできないのだろうか。だからといって今更自分が可愛げのあることなんかできないし、そんなことすればいよいよ気持ち悪いと思う。可愛らしく振舞うにはタイミングを逃し過ぎているし、やったところで結局は似合わないだろう。 真子を見ていると、またこの間の噂話を思い出してグダグダになりそうだったから、顔をそむけてジャンケンの結果を待つ。最後に残ったのはリサと羅武で、最終的に羅武が呼びに行くことになったらしい。しょうがねぇなぁ、とぼやきながら羅武が瞬歩で姿を消したのを確認すると、それをきっかけにぞろぞろと民族大移動が始まる。 じゃぁ、またね。次は今度飲みに行こう。おう、また誘ったって。ほなな。ありきたりな次の約束を交わしながらその場から離れようとした時だ。 「平子隊長」――と真子を呼ぶ女の声がした。その場にいたみんなが、誰だと一斉に振り返る。もちろんうちも。 「すみません、平子隊長。お待たせしました」 「そんな走ってこんでもええのに。別にそんな待ってないし」 声の主は息を弾ませながら走って来ると、真子に向かって深く礼をした。よく見ればあの日、噂話で名前の挙がっていた間島桐子だった。真子は腕組みしながら息を切らせている間島を気遣うように笑いかけている。二人は待ち合わせでもしていたのだろうか。 興味本位で見守っていると、間島がこちらをみると、ぎょっとして目を見開いた。隊長格の面々が揃っていることに驚いたのだろう。 「失礼しました! 隊長たちがいらっしゃると知らなくて。お疲れ様です」 間島は慌てて頭を下げ直し、一拍置いて顔を上げると、にっこりと笑った。すぐに落ち着きを取り戻したらしい。礼儀正しくて可愛らしいとも綺麗ともいえる間島の笑顔でその場の空気が柔らかくなって華やぎ、笑いかけられたみんなが釣られたように笑顔になる。うち以外のみんなは。 もともとうちは釣られて笑う性質じゃないし、そんな気分でもない。笑顔が眩しい間島をなんとなく直視できずに、少しだけ視線をずらし長い茶色の髪の毛を耳の横で留めている花柄の髪留めを見た。それは彼女にとてもよく似合っていた。 「おいおい、真子。野暮用ってこれかよ?」 「これって?」 「女と仲良くお出かけかってことだよ」 「ばれてしもたかー」 拳西は真子の肩に腕をかけて、てめぇも隅に置けねぇなといわんばかりにニヤついている。冷やかされた真子は手をおでこに当てて、おどけた調子で返していた。 (なんやこの会話。アホみたいや) 馬鹿にしているのに、気が付けば何も言わずに握りしめていた手に力を入れていた。 「まぁ、おでかけっちゅうわけでもないけどな。ほんでもこいつと用事があんねん」 親指でくいくいと間島を指差す真子。隊長格の面々を見ながら何をしゃべればいいのかわからないのだろう。間島は困ったような笑顔を浮かべて肩をすくめている。そんな彼女の様子を見ていると、チリチリと胸の奥が焼けるように熱くなる。 (なんやこれ) 間島に話しかけている真子はデレデレしているように見えた。はにかむように笑う間島と真子はやっぱりお似合いかもしれない。少なくとも、うちが隣に居るよりは自然に映った。かなりの身長差があるうちと真子じゃ、完全にデコボコ。不釣り合い。兄妹に見られても、恋仲に見られることなんか絶対にないだろう。もちろん、そんな仲じゃないけど。でも、間島と真子ならそんな仲じゃなくても、そうだったとしても、ちゃんと恋仲に見えるはずだ。 らしくない考えが頭の中を巡り、イライラとモヤモヤで胸がいっぱいになる。 だいたい、間島と真子が恋人同士と決まったわけじゃないのに、どうして自分はこんな気持ちなんだろう。完全に真子たちのことに気を持って行かれている自分が恥ずかしいやら情けないやらで、涙が出そうだった。 真子は誰にでも親しげに話しかける奴。しかも間島は真子の部下。仲良さげでも何の不思議もないし、仲がいいことは悪いことじゃない。むしろ隊士と良好な関係が築けていることは喜ばしいことのはずなんだ。それなのに喜ばしいと思えない。余所の隊のリサや、白の方が間島以上に真子と親しくしているのに。 (うちは、嫉妬してるんや。最低や) そう思った瞬間。 目の前でパンッと弾けたような音がした。 「わぁっ!」 ハッとして目を見開くと大きな手があってその奥に、真子の顔があった。たぶん、こいつが手を叩いたんだろう。 「どないしてん、ひよ里」 「……びっくりさすな」 真子は腰を屈めて視線を合わせるようにしてうちを見ている。他のみんなも驚いて叫び声をあげたうちを不思議そうに見ていた。、間島の髪留めを睨みつけながら、うちは完全に自分の世界に入っていたらしい。 「何回よんでも、返事もせぇへんから目ェ開けたまま寝てんのか思ったわ」 「アホか。立ったまま寝るとか、そんな器用なことできんわ。お前とちゃうねん」 「オレかて立ったまま寝れるかいな。ちゅーか、ボケーっとしてどないしたんや?」 「別に、なんもないわ」 「なんもないことないやろぉ」 「うちはな、お気楽ちゃうねん。考え事くらいするわ」 「お前がそんな玉かいな。ボケた面して桐子の髪留めばっか見て。ははぁん、さては髪留めが欲しいんか? 色気づきよってから、ガキのくせに。」 アホか。 小馬鹿にしたように言ってくる真子にムッとしながらも、思いの外普通に喋れていることに安堵して少し気持ちに余裕を持つことが出来たうちは、間島の方をチラリと見る。急に彼女の名前を真子が言ったせいで、すこしテンパっているように見えるが、くりくりの大きくて丸い目を細めてとりあえず愛想笑いを作ってそれに対応しているようだった。彼女の笑顔は可愛らしい。自分はあんなふうには笑えない。 「ハゲか、そんなんちゃうわ!」 「あいたぁぁ!」 後ろ向きな考えを打ち消すように威勢よく大声を出して、意地悪な笑みを浮かべた真子の顔面に思いっきり拳をめり込ました。真子は顔を抑えて蹲る。 確かに髪留めを睨みつけていたけれど、別に欲しいとかじゃない。思い違いをしてくれてうちの醜い気持ちに気が付かれなかったことにほっと肩を撫でおろしながらも、気付かれなかったことが少し寂しいとも思った。……いったい、うちは真子にどうして欲しいというのだろう。自分のことなのに、さっぱりわからない。 モヤモヤとした気持ちのまま顔を上げれば、みんなから今度は好奇の目でみられていた。急に居た堪れなくなってしまってうちは、真子を無視してさっさと立ち去ろうと踵を返してそのまま歩き出す。 「ひよりん! 待ってよ」 先に行こうとするうちをみたリサと白がすぐに追いかけて来た。それが合図になって、拳西たちも真子にまたなとひと声をかけてからぞろぞろと歩き出す。 あの突き当りを曲がってもう少し進めばじきに唄酒場につく。 早くお酒を飲んで、楽しい歌を歌おう。そうすれば嫌な気持ちも何もかもきっと忘れて楽しめるはず。 とにかくこの場から早く離れたくて足を、前へ前へと出して行く。 ……と。 「ひよ里、飲みすぎたらあかんぞー! 猿がゴリラになるからなぁ」 「なんやと!! もっぺんいってみぃ」 あと少しで曲がり角というところで、後ろから聞き捨てならない言葉が発せられ、反射的に怒声を上げて振り返る。その先には真子と間島は並ぶように立っていて、あいつは鼻の頭を抑えながら、けだるそうな笑い顔でみんなに手を振っていた。いつもならここでとび蹴りの一つでも喰らわせているのに足の裏が地面に吸い付いたように重くてうそみたいにピクリとも動かない。憎たらしい笑い顔をどついてやりたかったのに、体は言うことを聞かなかった。 とび蹴りができなかったうちは、代わりにフンッと大げさに鼻を鳴らし、正面を向直して、思いっきり腕を振って大股で前へと進んでいく。奥歯を噛みしめて。 うちの心境に気がつかない拳西とローズはしょうがないなと苦笑いをしていて、うちの気持ちを察している白とリサは呆れたように笑っていた。 いつだってうちは逃げることしかできなかった。 この時も。 そして、あの日も。 感情に任せて傷つけて、酷いことを言って、真子から逃げ出した。
|