境界線




雨の音がやたら煩い日だった。

彼は彼でひどく疲れていたのかもしれない。

あたしはあたしでいろんなことに投げやりでいた。

たまたま、傍に居た。違う、本当は、本当は。


「けん、せっ。ここ、玄関、だか・・・ら、」

「うるせぇ、まだ、帰ってこねぇよ」

「でも・・・ンッ」

くちびるを塞がれ言葉を遮られる。

身体を弄る手は、乱暴に服をはぎ取って行く。こんな所では、嫌だといったけど、聞き入れてはもらえなかった。

火照った身体の中心の一番感じる場所を探り当てられる。そこを嬲られれば、すぐに何も言えなくなる。


拳西は時々、気が向いたときだけ白を抱く。

欲しい時だけ、欲しがられる。

その行為自体は乱暴だし、掛けられる言葉だって乱暴なのに、直に身体を触る手は優しい。

キスだって、どうしてだか優しい。

だから、わからなくなる。

この行為に、愛だの恋だのそういうのは無い筈なのに。

勘違いしてしまいそうになる。もしかして、と、都合よく受け取ってしまいそうになる。

いけない。

好きだ、なんて思っちゃだめ。

彼とは、昔は主従関係だっただけで、今は、ただの仲間。

それ以上でも、それ以下でもないんだ。

あの時から、ずるずるとこうやって身体を重ねるけれど、心は一度でも重なった事は無い。

重ならない。

重ねない。

どうして。

だって、怖いから。

知るのが怖い。

きっと、拳西は――。


「ん、ァッ」

乱れる呼吸と熱い吐息。互いの熱に夢中になって、肌寒さなんて感じなかった。

こんな場所でという背徳感と、今だけは彼を独り占めに出来るという優越感が白を支配した。

まるでそれは麻酔のように感情を麻痺させる。

自分が勝手に定めてしまった境界線を越えることが出来ない。

越えてしまえば、きっとあとは落ちるだけ。

落ちてしまえば楽になれる筈なのに。

すんでの所で踏みとどまってしまう。

其処まで、考えて思考は拡散していった。

下腹部から競り上がってくるあの感じに、耐えるように拳西にしがみつく。

白、と掠れた低い声で名を呼ばれた瞬間に気を遣った。



本当は、彼の事が好きなんだ。

認めてしまえば簡単だけど、それは思ったより苦しくて。

好きだなんて、やっぱり言えない。

言ってしまうと、そこで終わってしまいそうで怖い。

身体だけでいい。

身体だけでもいいから、繋がっていたい。

それ以上、望まない。

だから、境界線は越えない。絶対に、越えない。



初めてこいつを抱いたのは、確か雨がよく降っていた日だったと思う。

いろんな事があって、確かに疲れていた。

あいつは、どうだったのか・・・正直なところわからない。

ただ、何も言わずに、何も訊かずに受け入れていた。

一時期の快楽で面倒事一切を忘れたいと思ったのも事実だ。

逃避というか、そういうもの。

だけど、たぶんずっと前からこいつを欲しいと思っていた。

気付かなかっただけで、そう思っていた。

愛だの、恋だの、好きだの、嫌いだのというのは面倒臭くて。特に女絡みはの事は殊更面倒だと思っていたから、考えないようにしていたけれど。

今思えば酷い話で。

それをあいつはずっと我慢していたんだろうか。

どうでもいいことは、何でもかんでもペラペラと鬱陶しい程良くしゃべるのに、本当にして欲しいことは何も言わない。

本当に欲しいものを言わずに我慢する。

「馬鹿野郎」

気を遣ってしまった白を自分のベッドの上に横たえる。

腕の中にすっぽりとうまってしまう彼女がなんだか妙に愛おしく思えた。

愛おしい――、

「今更、か・・・」

ポツリ、と零す。

あんな風にダメだと思いながら結局、箍が外れたように乱暴に抱いてしまうのに、都合よくそんな事を言っていいのか、と拳西は思う。

言うなら、もっと早く、始めからちゃんと言ってやるべきだった。

気がつくのが遅すぎた。

境界線なんて、自分の中でとっくに越えていたのに。


どうするべきか、と考える。

こいつを手離す気なんて毛頭ない。けれど、このままじゃ、いけない。
もしかしたら完全な独り善がりかもしれない。
見当違いで受け入れられないかもしれない。
それなら、その時だ。

するべきことは、わかっている。
あとは、それをするだけの意志だけだ。

白が目を醒ますと、拳西の横顔があった。

ぼんやりとみると、視線が合った。気恥ずかしくなって思わず顔を逸らす。

身体に掛けてある布団から拳西の匂いが微かにした。

「白」

ぶっきら棒に名前を呼ばれた。

何だろうと思って顔をあげると、そのまま抱きすくめられた。

服を着てないせいで、膚が直接触れ合って、温もりがダイレクトに伝わる。

ぎゅっと心臓が縮む。
彼の腕の中は心地よかった。

「な、に?拳西」

初めてだった。

あんなことの後に、こんな風に抱きしめられたことは、今まで無かった。

たぶん、変に期待させてはいけないっていう彼なりの気遣いだったんだと思う。

ずっと、そうだったのに。

今更、どうして。

「困る、よ、拳西」

困る。どうしていいか、困るよ。

ずっと、我慢してきたのに。

本当はこうしたかったけど、ずっとずっと我慢してきたのに。

「――もう、我慢しなくていい」

そんなことを簡単に言う。

簡単に、言わないで。じゃないと、本当に。

「今まで、我慢させて、」


――すまない。

耳元で静かに言われた。

境界線が壊れていく。パラパラと崩れ落ちる。

「なん、で?どして?」

問いには答えてもらえず、代わりに強く抱きしめられた。
胸の中が熱くなる。

「いいの?」

本当に、いいの?

我慢しなくていいの?好きでいいの?

受け入れてくれるの?あたしを。

そんな風に都合よく考えていいの?

拳西の顔が僅かに縦に振られたのがわかった。

「けんせぇ・・・」

思わず彼に縋りつく。彼の名を呼んだ声は、震えていた。
堰を切ったように溢れ始める。

「けんせぇ」

「ちょ、泣くなよ。面倒くせぇな」

ぎょっとしたように、大儀そうに言われた。

だけど、抱きしめてくれているこの腕はずっと優しいまま。

「拳西が、悪いモン。今まで、ずっと、そんなこと言ってくれなかったくせに」

拳西、ずるいよ。

そう言うと、くちびるを重ねられた。

ほんの少し乱暴で、でも優しいキスだった。



崩れ落ちた境界線を踏み越える。

たぶんあとは、彼に落ちていくだけ。




なんていうか、玄関でさせてみたかっただけなんです。←馬鹿なんです。
その一言につきます。2012.01.24