平子真子はまるで眠り姫のように眠ったままでいる彼女の傍に来ては、何かしら独りでベラベラとよくしゃべる。 ソレに対する彼女の返答は、もちろん無い。 無くても、平子は話しかけることをやめない。
眠り姫と僕。
「今日はな、瀞霊廷内をぐるーっと回ってきたわ。ええ散歩になったで」
本来なら、一番元気よくその辺をかけては悪態をつき、とび蹴りをし、誰かと何かしら口げんかをしているだろう彼女は、あの日から、ずっと眠ったままだ。 「昔とは違う甘味処も出来てたで。品数もぎょうさんなってなァ。白とリサがバクバク喰いよってかなわんかったわ。女の子は甘いものは別腹です言うて、ホンマかいな。食い意地が張ってるだけやろ。っちゅーか他のモンに集れっちゅうねん。春水さんとか春水さんとか春水さんとか」 ここまでダラダラ喋っていれば、普段なら何か突っ込みが入るのだが、今現在それをするモノはいない。 いつまでたってもこの物足りなさだけは馴れないな、と平子は思う。 「結構美味かったし、ひよ里が起きたらみんなでまた行こうなって話をしたんやで。どや?楽しみやろ」 空気の入れ替えをする為に、ひよ里が寝ている部屋の窓を開け放つ。 涼しい風が、ゆるゆると平子の前髪を揺らした。 すぅっと空気を胸一杯に吸いこんで、それからゆっくりと息を吐く。 一息ついた後、キョロキョロとその部屋を見渡すと椅子を見つけて来て、ひよ里が眠っているベッドの位置に座った。 背もたれのない、硬くて座るところが丸い椅子。 ずっと座っていると、お尻が痛くなってくるのだが、構わずソレに座る。 「痔にさえならへんかったら何でもええわ」と言うことだった。 イケてる男子たるもの、痔は死活問題だ。 彼女が目を醒ました時、あのどこで覚えてきたのか知らない秘孔を突く技を繰り出されれば、堪ったものではないだろう。お尻の調子は万全でいたい。 いやいや、それ以前に、 「あれはお嫁にいきたがっとるヤツがすることやない。」 ぼやきながら、座り心地の良さそうな椅子は来客用にとっておくのが彼の中で当たり前になりつつあった。 長まつげが印象的な、わりと幼い顔立ちをした彼女の枕元に頬杖を突く。 そばかすのある柔らかい頬にかかった金色の髪を丁寧にどかしてやる。 ずっと眠った状態でも、四番隊の隊士が彼女を大事に扱ってくれているのだろう、サラサラな髪と、汚れ一つない彼女の膚をみればそれがよくわかり、平子は心の中で感謝する。 「ほんでも、目、醒ましたら驚くやろうなァ」 顔から火が出るほど怒っている彼女の顔を思い浮かべ、クスクスと笑った。 独りで喋って、独りで笑っている状態。 「リサあたりに危険な奴や思われるわ。こんなん見られたら」 そう、ぼやいた瞬間だった。
それに思わずビクついて、驚いた拍子に椅子から転がり落ちる。 気配を消していたせいなのか平子は珍しく全く気がつかなかった。 「のわ!リサいつからおってん!?」 「今さっき。うちらの悪口吹き込んでたやろ、ひよ里に」 「そんな前からかいな」 思いきり尻をぶつけた平子は、片手で尻を押さえながら、椅子を起こし座り直す。 「一人で喋って、一人で笑ってるから気でも振れたんか思ったわ」 リサの容赦のない発言に肩をすくめたが、特に反論もしなかった。 こんな風な自分だと、そう思われてもまぁ仕方ないかなと思ったからだ。 それはそれとして、 「で?どないしたん?」 「ひよ里の見舞いに決まってるやろ」 あまりにもわかりきった事を訊いてしまった為か、リサの眼鏡の奥が曇る。 「そら、そやな。見舞ったって、見舞ったって」 ひよ里も喜ぶわ、とヘラヘラ笑い、まるでその部屋を預かるものかのように、部屋の隅にあった背凭れの付いている方の椅子をベッドまで運び、リサに座る様に促す。 馴れたもんやな、とリサは思った。それだけ、平子がこの部屋に居るのだろうことが伺える。 「ハッチたちは?」 「あー、あいつらは、午前中に見舞ったらしいで。ローズもラブも一緒に」 「あ、そう」 リサは用意された椅子に腰を掛け、たまたま持参していた『四十八手』と表紙に書いてあるいかにもな雑誌をしれっと平子に手渡す。 「夜のお供に」 「いいえ、結構です」 「何や汁がついたらお買取で・・・」 「しゃーから間に合ってます」 「ほんなら何をおかずに・・・」 「・・・言いません。いえ、言えません」 平子は丁寧にリサに突き返した。 いったい何を(と、いうか誰を)おかずにしているのかと興味深々な顔をするリサに、そう言えばと平子は喋り始める。 「そや、リサ、七番隊に顔出したれや」 「なんでや。七緒の邪魔になるわ」 「春水さんが嘆いとったで。『リサちゃぁんが一緒にお酒を呑んでくれないんだよォ』って」 あの阿呆がっ!とリサは頭を抱える。 「あの人は見境なくああやから放っておけばええ」 「そう言われて嬉しいくせに。素直やないですね。リサさんは」 リサは、チッと心底鬱陶しそうに舌打ちした。 「そんなんは、ええかから。ひよ里はどうや?」 あまり自分の話題をされる事を好まないらしいリサはすぐに話を逸らす。 と、いうかひよ里の事の方が本題だろう。 からかう材料の無くなった平子は、つまらなさげな顔をした。 「御覧の通りや。眠り姫よろしゅう寝たまんま。襲うてまうぞ、コラ」 昨日までと特に変わった様子も無く眠ったままのひよ里に向かって顎をしゃくらせる。 「シンジが言うと冗談に聞こえへんから、あんま言わんときぃ」 「・・・どういう目で見られてんの、オレ」 「そういう目」 そうですか。と、平子は嘲た。 表面上のふざけたやり取りを終えた後、リサはひよ里に視線を移す。 綺麗な顔して眠ってるなァ、心の底からそう思っているのだろう、自然とそう零す。 その言葉に、平子は何も言わずに頷いた。
開け放たれた窓からは、変わらず優しい風が入り込み、ひよ里の髪はその風と戯れるように僅かに揺れる。 平子と、リサは、すぅすぅと心地よさげな寝息をたてるひよ里の傍で、暫く黙ったまま彼女を見守る様に眺めていた。 今すぐにでも、その大きなぱっちりとした瞳が開かれ、「ジロジロ見んな!ボケ!」と憎たらしい言葉を喋りそうなのに、その気配はいっこうに無い。
「あんた、いっつもああやってひよ里に話しかけてるん?」 その言葉に、ほんの少し驚いたように目を見開いて、でもすぐに表情を戻し、そうやで。と平子は答えた。 「卯ノ花サンがな、話しかけたれって言うてな、こうやって眠ったままでも頭ン中に届くらしいわ。せやから、」 オレが言うてる言葉、少しでも届いてるとええんやけどなぁと小さく言う。 意識不明の人に話しかけたり、腕や手を擦って脳に刺激を与えるとよいらしいと、訊いた事がった。 実際に昏睡状態の人がそれによって目を醒ますという事例もあるらしいし、悪いことではないのだろうというのはリサにもよくわかる。 ただ、ずっとそうしている彼はなんだか、主人の帰りをひたすら待っている犬のような、忠実な僕のような錯覚すらしてしまいそうになる。 彼はこんなにも悲愴感を纏うような男だっただろうかと。 否、彼女が知らなかっただけで、もしかしたらこの男の実際の姿なのかもしれない。 リサはそんな平子の姿の断片を垣間見ている気分になった。 「必死やな」 「・・・必死やで」 死んだ魚のような瞳をしたこの男を、こちら側に繋ぎ止めてるのは、紛れもなくひよ里なのだろうとリサは思う。 あの子は、知っているのだろうか。 彼の、こんな姿を。
ひよ里から視線を逸らすことなく、まるで独り言のように平子は話す。 先ほどまでのふざけた調子はどこにもなく、例えるなら今にも破裂しそうな風船を怖々扱っている風な感じだった。 「あかんねん。これがおらんかったら」 今まで、ずっとこいつ護ってるつもりやったんやけど、逆やったんやなァって今更気がついてな。 おかしいやろ。 「まさか、ここまでとはなァ」 情けないなァと、平子は自嘲した。 リサは黙ったまま平子の話に耳を傾ける。 「話しかけてないとな、不安やねん」 このまま、目を醒まさないんやないかと。 あちら側に逝ってしまうんやないかと。 繋ぎ止める術がこんなことしかなくて、こんなことしか出来なくて、
強い強いと思っていた男は支柱を失いかけると、こんなにも脆くなるのか。 でもな、と平子は付け加える。 「大丈夫やで、オレは。やらなあかんことはぎょうさんあるし。あんま深刻にならんでくれるか?リサ」 黙って言葉に困っているリサをみた平子は堪忍やでと謝る。 その後すぐに、苦い笑いを浮かべた後、椅子から立ち上がり、窓を閉め始めた。 部屋の中に入ってくる風はいつの間にか冷たくなっていて、それはひよ里の身体に障るだろうとの気遣いなのだろう。 よく気が回る、彼らしい行動だった。
「まだ、ひよ里の傍におる?」 「え?」 「いや、な。まだ居てくれるんやったら、オレちょう外出ようかな思って。あ、どっちゃでもええねん。ただ、ちょっと・・・」 独りにさせてくれ・・・と言うことか。 「あと少しだけひよ里の傍に居るから、少しだけ外の空気吸うてきたら?」 「そうか?すまんな」 リサは、左手を早く行けというようにヒラヒラ振る。 「別に。仲間やないの。気色悪いから謝らんで」
「おおきに」 それだけ言うと、平子は背中を丸めて廊下に出た。
その声に弾かれたように平子は振り返ると、どうやら彼女自身も驚いたふうだった。 椅子から腰を浮かせ、中腰の体勢になったせいで、持っていた雑誌がバサリと音をたてて落ちた。 それを気に留めることも無く、いつになく切羽詰まっているようなリサの表情に平子は息を呑む。 言うべきか、言わざるべきか、少し迷って、それから、意を決したようにリサは平子を見る。
わかっているんだ。あの子は、根っこの部分はとても強い子だから。 絶対に、戻ってくる、と。
リサはそれ以上彼に掛ける言葉は思いつかなかった。
独り言ちる。 西の空はいつの間にか赤みがかっていて、じきに日が沈むのだろう。 空に浮かんだ雲は、ゆったりと流れていく。冷えた風が木々を揺らす。 地面には建物の長い影が出来ていた。遠くで聞える隊士たちの声。 ひどくのんびりとしたその風景は形は多少違えど、昔、あの子と眺めたあの頃のままだった。優しい、優しい想い出のまま。 ずっと眺めていると、やがてその景色が滲んだ。 吐いた息は熱く、 そして驚くほどに震えていた。
笑い顔、怒った顔、困った顔を思い出す。
溢れだしそうになる感情を抑えるように、自らの手で顔を覆った。 リサに言ったあの言葉は、自分を慰める言葉だった。
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