サルベージの夜 目当てのレコードを買いに行った帰りに寒さしのぎに平子はふらりとコンビニに立ち寄った。少年誌が置かれた窓際の雑誌コーナーの前で立ち止まり、ガラス越しに外を見ると、街路樹は葉を落とし寂しげに立っていて、その下にはわずかに落ち葉が残っている。陰気そうな厚い雲が垂れ込めていて、今の時期、日が暮れるのも早いせいもあるが、薄暗くて雨か雪でも降りだしそうだった。 漫画を立ち読みして帰ろうかと思ったけれど、今店頭に並んでいるモノはローズが買っているだろうと思い直し、飲料水が置いてある場所に立ったところで平子の携帯が鳴った。着信者はひよ里。5コール目で出た。 「どないしたん。めずらし」 ひよ里から電話をかけてくることは本当に珍しいことだった。平子自身もひよ里の携帯を鳴らすことはあまりない。基本いつも一緒に居るからそうそう携帯を使うようなこともないのだ。 『どこにおんねん』 「コンビニ。水買おうか思って」 自分から電話をかけてきたくせにしばらく黙ったままだったひよ里がようやくボソッと喋った。ひよ里が平子の所在を確認することも、また珍しいことだった。 「あとちょっとで帰るで」 聞かれてもいないが、一応帰る旨も伝えておく。ここから徒歩で10分もしない場所に自分たちの家がある。飛べば3分もしないくらいだろう。 『ほしたら、おでん買うて。大根とちくわとたまごと……、あとスジ』 「ええー?!」 良いよも言っていないのに当たり前のようにひよ里は平子に買い物を言いつけ、平子は平子で、面倒やとぼやきながらもそれをちゃんと暗記している。平子はひよ里からの頼まれごとは文句を言いながらもだいたいは叶えてやるのだ。どんな時だって。 アパートの鉄の扉を開けると部屋の中は暗く、いつもは騒がしいのにシンと静まり返っていた。 「ただいまぁ」 どこかに出かけると言っていただろうか、と首をひねりながら靴を脱ぎ、部屋の奥へと入って行く。買ってきたおでんをダイニングテーブルの上に置き、ぐるりとあたりを見回した。浴室のある方から光が漏れていて、水が落ちる音がする。行ってみると、浴室の戸の隙間から湯気が上っていた。お湯を溜めているのだろう。ひよ里はその戸に向かうような形で膝を抱えて座っていた。ただでさえ小さいのに、余計に小さく見えた。 「お前何してんねん」 「帰ってきたんか」 平子の声を聴いてようやくひよ里は顔を上げる。眉間にしわを寄せいつも通り勝気な瞳にほっとしながらも、やっぱりどこか頼りなく思えて、平子は少し困った。 数か月前、ひよ里は命を落としかけた。ひよ里が助かったのはもしかしたら奇跡に近いのかもしれないと、平子はずっと思っている。何とか命をつなげた後も数日間、ひよ里は目を覚ますことが無かったのだから。 今では、元気そうに人をボケハゲと罵ってみたり、薄っぺらいサンダルで頭を叩いてみたりとこれまでとなんら変わらない、と思うのだが。時々、――本当に時々だけれど、さっきのように頼りなく思えるのだ。100年以上も一緒に居たのだからひよ里に元気がないときだって、気が弱くなっている時だって知っている。でも、扱いに困って持て余した気持ちになるのは平子も初めてだった。 あの日を境に何か自分たちの間で、何かが変わってしまったのだろうか。 「みんなは?」 「出てった。飯食いに」 顎をくいっとしゃくらせて、玄関を指すひよ里の顔を、平子は少し腰を屈めて覗き込む。 「お前は行かんかったんか?」 「うん」 「なんで?」 「おでん、頼んだし。外に出る気分でもなかった」 「俺と一緒に居りたかったって素直に言いや」 「ジイシキカジョーや。ハゲが」 手か足が出るかと思って平子は思わず身構えたが、特に何もされることは無かった。少し拍子抜けした気分で膝を抱えたひよ里の目の前に浴室の戸を背にして平子も座る。ジャージの裾から伸びた白い素足が寒そうで、なんとなく自分の足を乗せてみると、今度はすぐに脛を足で蹴られた。 「水虫うつったらどないしてくれるねん」 「失礼やな。水虫ちゃうわ」 ようやくいつものひよ里らしく思えて安堵した平子は、寒さで強張っていた頬を緩ませることができた。 ひよ里の二つに結んだ髪の毛を片方ずつ解いてやる。平子よりも少し褪せた金色の髪がするんと肩に落ちていくと、ひよ里はむずがるように顔を横に振った。 「ちょ、何?」 「風呂、入るんやろ? 一緒に入ろ」 親指で後ろの浴室を指し示すと、ぷいっとひよ里がそっぽを向く。 「やや。せまい」 「我慢しぃ」 「おでん冷める」 「後でチンしたるから」 納得したのかすんなりと頷いたひよ里は平子に手を差し出した。立たせろと言うことなのだろう。平子が先に立ち上がり、小さな手を引く。握ったひよ里の手は手が冷たかった。 ひよ里は確かに何か変わったと平子は感じることがある。どこが? と問われると困るのだが、纏っている空気があの頃とは違うのだ。無色透明とでもいうのか、澄んでいると言えばいいのか。適当な言葉が思い浮かばない。頼りなく思えるのはそのせいかもしれない。 (ホンマ、ちんまいなぁ) 胸に当たる、昔からひとつも変わらない小さいひよ里の背中。この背中に、いったいどれだけのモノを背負い込んだのだろう。勝気な性格と、でかい態度のせいで人には誤解されがちだが、ひよ里は繊細なのだ。抱え込まなくても良いモノまで、ひよ里は全部抱えてしまう。それをどうにかしてやりたくて、ずっと平子は傍にいた。 どれだけ罵詈雑言浴びようと、とび蹴りやサンダルで叩かれようと、可愛いかった。護りたいと思う女の子だった。求められれば、与えてやりたいと思った。平子が与えることができることなら、全て。 「真子」 「んー?」 湯加減が丁度よくて間延びしたような返事を平子が返すと、タオルをお湯に沈めた状態でひよ里が急に手を止めた。何となく嫌な感じがする。 「戻らんのか」 「どこへ?」 何が言いたいかは察することが出来たが、平子はとぼけてみせる。ひよ里はそれにため息で返す。 「わかってるやろが」 「……尸魂界へ、か?」 ひよ里が小さく頷く。ひよ里から感じる違和感の正体はたぶんこれだ。 「戻れるかどうかなんか、決まってへんやんけ」 今、護廷十三隊では、新しく選任された四十六室によって平子たちの処遇についての話し合いが続いている。熟慮する必要があるとして、簡単に答えが出ないとだけは聞いているが、早い話、自分たちがどうすれば逆恨みを買わずに済み、尚且つ、四十六室の威厳を保つことができるかを話し合っているのだろう。だとすれば答えが出るのは当分先だ。 「今隊長が居てへんところにはお前らが据えられるんちゃうか? ありえる話やろ」 確かに充分考えられることだ。けれど、自分たちの意思が優先されるだろうから、仮にその話が出たところで拒否することだって出来る、強制では無いだろう。 いきなりひよ里がそんなことを言いだす意味がわからない。恐らく、誰かの入れ知恵なのだろう。その誰かも薄々わかる。 でも、どうして今なんだ。 「死神、嫌いなんちゃうんか。おまえ」 「嫌いや」 「せやったらなんで俺にそんなこと。戻ってほしいんか」 「うちにも、ようわからん」 なんだそれは。意味がわからない。 平子が苛立って責めるような調子になると、ひよ里は肩を竦ませてさらに小さくなろうとする。 「ほんまはお前が――……」 戻りたいんやろ、と言いかけて、口を噤む。振り向いたひよ里の目がひどく傷ついたような瞳をしていた。 「――すまん」 しばらく困惑したように平子を見ていたが、ややあってひよ里はまたタオルを膨らませて始めた。重たい沈黙が二人を支配する。 『嫌い』の言葉の裏側に隠れている気持ちに気がついても平子は知らないふりをしていた。ひよ里自身、見ないようにしていたその部分はきっととても柔らかくて、少しでも触れてしまえば壊れてしまう程に脆いことが、平子にはわかっていたから。 本当は誰よりもあの場所に戻りたいと思っているのはひよ里なのだ。ただ、ひよ里が戻りたいのは100年前の、奪われてしまったあの時だ。みんなと一緒に、今のあの場所では無く、昔に。 もしかしたら、平子を含め仲間全員がそうなのかもしれない。復讐することだけを心の拠り所にして前に進んでいたつもりだったけれど、結局何一つあの時から何も変わっていない。水の流れが滞るのと同じように、時間が止まったままなのだ。あの時から、ずっと。 それなのに。 一番その場所に留まっていると思っていたひよ里が、そこから動こうとしているように思えた。置いてけぼりを喰らった気分。もう、自分は必要ないのか。 「ひよ里」 平子は小さな背中を抱え込むようにして抱き込んだ。 いつか必要とされなくなる日が来ることは、わかっているつもりだった。平子のようにただ、与えるだけじゃなくて、ひよ里には肩を並べて歩けるような、喜びも悲しみも分かち合えるそんな相手がきっと相応しいと思うから。ひよ里が一人で歩けるようになったのなら、その時は笑って受け入れるつもりだったのに。変に焦って、苛立って。これでは、駄々をこねる子どもと変わらない。 必要なのは、むしろ平子の方だったのかもしれない。
「卯ノ花サン、仲間や言うたんやろ」 ポンポンと、あやすようにひよ里が平子の腕を叩く。 「”仲間”の命を救うのにお礼の言葉などいりません」ひよ里の命を救ってくれた卯ノ花が言った言葉がそれだった。その時意識の無かったひよ里が知っているのは、たぶんリサか誰かに聞いたのだろう。 「嬉しかったんやないんか?」 「……まぁ、うん。そう、やな」 どうやら、ひよ里には見透かされているらしい。 死神でも虚でもないような自分たちを。100年の断絶期間を経てなお、“仲間”だと言ってくれたあの言葉が。確かにこの胸に響いたことを。 「真子、うちな」 ひよ里が思い出したように言った。 「あんたのずるずる長い髪は似合うてへん思ってたけど」 「うん」 「せやけど、隊長羽織は、よう似合うてたと思うで」 「へ?」 ひよ里の意外な発言に、驚いて腕の力を緩めると、身体をお湯に沈めて小さく膝を抱えたまま身体ごとこちらを向いた。 「初めて聞いたわ。そんなん」 「初めて言うたわ。そんなん」 鼻の下までお湯につけて、ただでさえ桜色に染まっているそばかすの散った頬をさらに赤くして恥ずかしそうにひよ里は肩をすくませた。
平子は、一つだけ忘れてたことがある。 勝気なくせに繊細で守ってやりたくなる女の子は、肝心なところで芯がとても強い女性だったことを。
「ひよ里、洗ったるわ。来い」 「いらんわ! エロい! ハゲろ!」 今更恥ずかしいのか、胸元をタオルで隠しながら騒ぐひよ里をひょいと持ち上げて、洗い場に立たせる。いっぱつ脛を蹴られたがそれ以上の抵抗はみせずにおとなしくなったひよ里を前に向かせ、平子は背中を抱くようにしてさっきまで自分の身体を洗っていたスポンジで丁寧に洗い始めた。首筋から鎖骨。胸へと徐々に下に降りていく。くるくると弧を描くように優しく洗う。 「くっつきすぎやろ」 「ええやん。今度はオレの方向いて」 迷惑そうにするひよ里に平子はくすくす笑いながら肩を持ってくるりと反転させる。今度は抱きしめるようにして邪気のない手つきで背中を洗い始めると、おずおずとひよ里が平子の背中に手を回した。意外としっかりと抱きしめられ、伝わってくるひよ里の温もりは優しかった。 背中も、足の先も、髪の毛も全部洗って、二人して泡だらけになる。洗い場にくしゃっと座り込んで、頭から熱いシャワーを浴びた。 泡と一緒に余計なものが洗い流されている気がする。頭の中もしゃきっとして。身体も軽くなったように思える。真っ新な感じ。意識がありながら生まれ変わるとこんな気分なんだろうか。 雨みたいなシャワーを浴びながら、平子はひよ里を抱きしめる。 「好きやぞ、ひよ里」 何も言わないひよ里を抱く腕に力を込めると、小さな肩が震えていた。
お風呂場でいちゃこらさせたかったの。 |