平子真子は愚かだ。 いつか僕に裏切られることがわかっているうえで、褥を共にしているのだから。 月も星の光も何もかもを飲み込む闇夜。戸を一寸ほど開けているせいでそこから聞こえるのだろう、ジーッと地中からするオケラの鳴き声は、酷く耳障りで。今にも雨が降るのかと思うくらい湿気を含んだ空気は、ただただ膚に重い。その全ては男にとって煩わしいとしか感じないものばかりだった。 「……、隊長」 行燈の明かりだけが頼りの薄暗い部屋に男が二人。組み敷かれているのは、五番隊隊長の平子真子。組み敷いているのは彼の副官である藍染惣右介。藍染は熱のこもった息を吐きながら平子を呼ぶが、彼は目を閉じたまま何も反応を示さない。それが面白くなくて藍染は布団を覆う真っ白な布の上に広がる金色の女のように長い髪を撫でてから、痩せて薄い胸に手を這わす。胸の中心のしこったところを指の腹で捏ねれば、うっと声を漏らすから寝ているわけではないらしいのは、すぐにわかった。藍染はもう一度彼を呼んでみる。 「平子隊長」 彫の深い顔の男は、やっぱり返事をせず、まるで呼ぶなといわんばかりにうっとうしそうに瞼を持ち上げた。そのまま真正面を見ることもせずに瞳だけを動かして余所を向く。真正面を見ようとしないのは藍染がいるからなのかもしれない。彼よりも格下の藍染が、格上の自分に覆いかぶさって情交に及ぶことが面白くないのだろう。 怒っているのかと聞けば、別にと平子はそっけなく答える。 「いやでしたら、そうおっしゃっていただいてよかったのですよ」 彼を気遣っているつもりではないが、別に無理強いしてまでこんなことをするつもりは藍染にはないのだ。けれども平子は答えるのも億劫なのか別にとしか答えない。藍染を見ようともしない。不満そうな顔のままで。極めつけに、はぁぁと大きく息をついた。 「最中やっちゅうのに、お前、ようしゃべるな」 興が覚めると、言いたいのだろう。しかしそれは。 「隊長が、呼んでも反応を示されないからじゃないですか」 「……、」 平子は何も答えない。 余所を向いたままの色素の薄い瞳は焦点を合わせているようには見えず、どこか虚ろ。それを見た藍染は奇妙な焦燥感に襲われた。とても嫌な感覚。平子は何を見て、何を考えているのだろうか。人の気持ちも行動も藍染には手に取るようにわかるのに。この男、平子だけは時々全く読めなくなってしまう。それが何よりも藍染を不安にさせた。苛立たせた。 「こちらを見てください」 「いやや」 即答。 咄嗟に細い顎をつかみ自分の方へと注意が向くように薄い平子の唇に唇を重ねた。舌を差し入れて口内を余すところなく犯しても、平子はただそれを甘受するだけ。それは余計に苛立つ原因になった。 いつもそうだ。口付けも、情交も、平子はただ受けるだけ。目の前にいる藍染のことなど見ようともしない。まるで居ても居なくても同じであるかのように。その存在を無視するように。隊長、副隊長の間柄である時から、初めて彼に触れ、抱き、今に至るまで。一貫して平子真子はそうなのだ。この瞳に自分が映ることがない。これなら、まだ抵抗をされた方がいいと、藍染は思った。 だから言ったのだ。 「どうして、隊長は何も言わないんですか? 僕にこんなことをされて嫌じゃないのですか?」 と。感情は上手に隠せていたはずだ。 さぁ。なんでやろな。平子は虚ろな瞳のまま答えると、また黙った。 平子真子はわかっているはずなのだ。自分がいつか、隊長である平子を裏切ることを。なのに。どうして彼は、何も言わない? 知らないふりをする? 沈黙が続く中、平子を見ていると、不意に彼の瞳が動き藍染をみとめた。 「隊長……」 節の目立つ長い指が藍染へと伸びる。頬に触れた指は、子供をあやすみたいに撫でた。昂ぶったのは、上手く隠しているはずの感情。潰れそうなのは、脈打つ心臓。 薄い唇は言葉を紡いでゆく。 なぁ。惣右介。 はい。 逆に聞くけどな。 なん、でしょう。 ほんの少しだけ声が上擦ってしまったことに、平子は気が付いたのだろうか。 頬に触れていた指が、名残惜しむようにゆっくりと離れていく。珍しくその瞳は藍染をきちんと映していた。そして、憐みが浮かんでいた。 「お前はなんでそんな顔してんねん」 平子の言っている意味が分からない。 「なんでそんな顔で、俺の上におるんや」 自分は、何を言われているのだろうか。 藍染の頭の中は靄がかかったようにぼんやりとしていた。 いつも通りのはずなのだ。多少苛立ってしまったり、声が上擦ったりといつもよりも若干不安定ではあったけれど、それは大したことではない。むしろその他大勢の者と同じだろう。ヒトらしいではないか。完璧すぎれば逆に変だ。完璧すぎない方がいい。 だいたい、自分がいったいどんな顔をしているというのだ。この男にとっては、平子にとってはどうでもいいことだろう。 「おっしゃっている意味が分かりかねますが?」 藍染がいつも喋る口調で言えば、わらないのならいいと、平子はまた余所を向いて、藍染をその瞳に映さなくなった。その刹那。ザァッと何かわけのわからない黒いものに覆われた気がした。 感情を制御することは容易いこと。きっと誰よりも上手くできているはずなのだ。隊長格の中でもとりわけ感情制御に長けているこの男よりも。 ずっと優位になっているはずなのに。 自分よりも各上の男を組み敷いて好きなように扱っているのに。 屈辱で声を噛み殺して、それでも我慢しきれず啼き声を漏らすのもこの男なのに。 それなのにどうして自分はこの男に憐れんだような瞳を向けられなければいけないのか。 どうして自分の方が惨めな気持ちにならなければいけないのか。 どうして自分は今、――泣きそうなのか。 いつか藍染は平子を裏切る。 その時、きっと彼は藍染を嫌でも映すことになるだろう。 憎しみでその心までもを満たすことになるだろう。 愚かな彼は、きっと後悔するだろう。 藍染と褥を共にしたことも。 気づいたときに藍染を殺さなかったことも、何もかもを。 ――でも。本当に愚かなのは、もしかしたら。 そこまで考えて藍染は思考を止めた。 その場を僅かばかりに灯す明かりが、かすかに揺れた気がした。 裏切り者のくちづけは痛いほどに甘いので。 藍染惣右介はいつか自分を裏切る。 予感が確信に変わったのはいつのころだっただろうか。 隊長副隊長の間柄の時はまだ予感だったと思う。ならば、あなたを抱きたいのです、と言われたあの瞬間か。くちづけを交わしたあの時か。それとも一線を超したあの夜か。どれもそうだと思えたし、どれも違うとも思った。 そして、今。裏切ると確信している男は平子の上で着物の合わせ目を肌蹴させていつもと同じような余裕のある顔で覆いかぶさっていた。 痛々しいまでに余裕のある顔。完璧に自分を隠すことができる男は、それ故にしている表情に気が付いていないのだろう。きっと。 平子はそれを見るのは正直きつい、と感じている。 あの顔をみると、無性に手を伸ばしてやりたくなる。労わってやりたくなるのだ。いつか自分を裏切る男なのに。それなのに。 胸に渦巻くこの感情。これがなんなのか、平子はよくわかっている。とても癪に障ることで。認めたくもないことで。けれど、藍染がいつも寝起きしているこの部屋で。書物ばかりが整然と並べられており、それなのに恐ろしくなるほどに生活感が感じられないこの部屋で、当然のように藍染に組み敷かれれば、嫌でも実感させられるのだ。 そして、この感情を持っているのは、おそらく自分だけなのだろうということも。 その事実は、なによりも。どの事柄よりもきついことだった。 藍染は言う。 「どうして、隊長は何も言わないんですか? 僕にこんなことをされて嫌じゃないのですか?」 「さぁ、なんでやろな」 問いかける男に、正面から向き合おうとしない自分はたぶん、ずるい。 この男は信用できない。信用できないものに手の内は絶対に晒さない。弱みは見せない。隠す。この、気持ちも、全て。だけれども。この男の本質は、嫌いではない。むしろ、 好き、――なのだ。 抱く感情は、恋情。本当に、認めたくないけれど。 嫌なら、こんなふうにこの男に抱かれたりしないだろう。何が悲しくて各上の自分が格下の男に組み敷かれなくてはいけないのか。そうしないのは、そういうことなのに。藍染は何でもよくわかっているくせに、何も知らない。肝心なことをわかっていないのだ。 虚空を見つめるばかりだった平子は、藍染の顔をみる。焦げ茶色のやわらかくて癖の強い髪。低く落ち着いた声。眼鏡の奥にある茶色いガラス玉のような瞳は、いつも何かに絶望をしているように見えた。それなのにこの男は薄く微笑むのだ。真っ暗い闇さえも呑み込んで。僕は何も怖くない。そんなふうに語るように。 この顔。 この顔が、嫌いだ。 無意識のうちに手を伸ばしていた。頬に触れる。女とは違う、やわらかくもないだろう、堅そうな頬。 「隊長……?」 急に撫でられて戸惑っているのか、藍染はそれ以上言葉を紡げない。 撫でた膚は思いのほか滑らかで、やわらかで。無意識とはいえ、伸ばしてしまった自分の手を呪った。伸ばしたところでこの男は何も変わらない。 「なぁ。惣右介」 「はい」 触れていた頬から指を離す。 「逆に、聞くけどな」 「なん、でしょう?」 多少上擦ったように聞こえたが、それは自分の気のせいなのだろう、と平子は思った。 一寸ほど空いた戸の隙間から生温い夜風が入り込み、藍染の髪と戯れた。ジージーとやまないオケラの鳴き声。現実味の少ないこの男の部屋。堅い敷布団の覆いからする清潔感のある洗濯糊のにおい。膚の輪郭を確かめる指先。信用できない男と、それを副官に置いておきながら信用しない自分。 藍染は、自分と同じ感情ではない。平子を抱いていても、平子と同じように恋情を抱いているわけではない、と思う。この男が欲しいものは、たぶん。もっと別のもので。その術を知らないから、平子を抱くのだろう。どうにかして、それが欲しくて。いつか平子を裏切るのに。一番ひどい形で裏切るのに。今だって、それをわかったうえで抱かれている平子を愚かだと内心で嘲笑っているくせに。 「お前は何でそんな顔をしてんねん」 見てもらいたくて仕方がないのだろう。 自分を映してほしくて、仕方がないのだろう。 「なんでそんな顔で、俺の上におるんや」 母親が子供を愛するように、抱きしめて、キスをして。 友人のように、同じ目線で同じものをみて、語らって。 だけど。 出来るわけがないじゃないか。そんな感情を藍染に対して平子は持ち合わせていないのだから。 それが欲しいのなら俺に求めるな。他を当たれ。……そう思うのに、言えないのは、結局はこの男を手放したくないからで。あまりに滑稽な自分に、平子は自虐的な笑みを浮かべた。 「おっしゃっている意味が、わかりかねますが?」 余裕のある顔をして、笑う顔が、嫌いだ。そんな顔、見たくない。 「わからへんのやったら、ええわ」 視線を外し、また平子は虚空をみる。 行燈の明かりだけではこの闇はあまりにも暗すぎてすべてを照らすことはできない。どこまでも続くような暗いこの部屋は、この男の胸の中のような気がした。 まとわりつく空気は重くて。身体は芯からうずいて熱いのに、うすら寒くて。藍染に見降ろされたままでいるのは、居心地が悪く思えた。孤独と絶望と狂気が共存するこの瞳は、たぶん毒。甘い劇薬。 「ええから、はよ続きをしぃ。明日も早いねん」 毒はどこからでも、皮膚の汗腺からでも入り込み、静かに少しずつ平子を侵食していくだろう。浸食され、喰いつくされ、蝕まれた先にあるのは、なんなのか。その時自分はどうなっているのか。それはきっと、さほど遠くない未来の話。 けれど今はそんなことを考えたくなくて平子は藍染をせかすように言った。情欲に溺れてしまえば、そんなこと考えなくても済むことを知っている。見下ろしてくる男は仕方なさげに頷いた。 「わかりました。力、抜いててくださいね」 「ええねん、そんなんいちいち言わんで。わかっと」 最後の言葉は藍染の唇によってふさがれてしまい、声になることはなかった。 この男のくちづけは、痛いくらいに甘いから。目の前がゆがんでいく。感情は、麻痺する。 早く、何も考えれなくしてくれ。 快楽だけを与えてくれ。 そうすれば、愛しさを誤魔化して。 快楽からくるものだと、誤魔化して。 この男も、自分すら誤魔化して。 きっと優しく抱きしめてやることができるだろう。 髪を梳いてやり、自らくちづけることもできるだろう。 それは。 この男が望むことは、おそらくなにひとつとして与えてやることができない自分が、唯一できることだから。 いつか裏切る男にしてやれる、唯一のことだから。
お題提供
ロメア
様
愛しさと憎しみの共存。2012.05.28 |