月夜の不機嫌





五番隊隊舎。隊主室前にある馴染み深い縁側に腰を掛けぼんやりと夜空を見上げる男がいた。この隊に100年ぶりに隊長として戻って来た平子真子だ。彼のそばには、隊舎内を見回っている途中だった副官の雛森桃。彼女は平子に頼まれた飲み物をどうぞと差し出しながら、少し困った顔をしていた。

「本当にコーヒーでいいんですか? 平子隊長」

「ええねん、こえれで」

 頼んだコーヒーを受け取りながら、アシンメトリーな前髪が斬新なおかっぱ頭はにんまりと笑い、礼を言う。

「こんな時間に飲んだら本当に寝付けなくなりませんか?」

「かまへん、かまへん」

「……そうですか?」

 うんうんと頷く男に雛森は少し呆れてため息をついた。


 

平子は夜も遅いのに珍しく起きていた。尸魂界に戻ってからというものわりと慌ただしい日々を過ごしていたため、いつも布団に入れはすぐに眠れていたのに今日はどうしてだか眠れなかった。もしかしたら昼間忙しすぎたせいかもしれない。疲れすぎると逆に眠れなくなるらしい。とはいえ、昔は今よりももっときつい任務を連日こなしていたこともあったけれど、こんなふうになることはなかった(別件で眠れなくなることは稀にあったが)。100年も死神としてのブランクがあるせいか。はたまた年をとったという証なのか。いや、もしかしたら……。

眠れない平子は潔く起きていることに決め、縁側で夜の空を見ていた。雲がほとんどないのだろう。月も星もとてもよく見えた。月は欠けていて三日月ではあったけれど、絵に描いたように綺麗で。そんな綺麗な月を見ていたら、そういえば現世でもこんなふうに眠れないと夜空を見ていたことを思い出した。その時は平子一人ではなく、口が達者で可愛げなんてまるでない、なのにどうしてか愛らしいと感じてしまうあの子と一緒に。

そうやって柄にもなく思い出に浸っていると隊舎内を見回っていた雛森がやってきて、律儀にもコーヒーを淹れてきてくれたのだ。あれこれ詮索せずに頼んだ飲み物を淹れてくれた彼女に感謝しつつ、平子は受け取ったコーヒーを一口飲む。素直に美味いと思った。

「美味いな」

「あ、ありがとうございます」

「いや、ほんま美味いわ」

 あんまりにも感心したふうに美味いというので、雛森は顔を赤くして両手を振って照れ笑いをする。

「ただのインスタントですよ? お湯を注ぐだけなのに大げさな」

 平子は顔を顰めて横に振った。

「それがな、そういう便利な代物使っても破滅的に不味いもん淹れるやつもおんねんって」

「そうなんですか?」

「そうや。どうやって淹れればあんな味がでるんか不思議でしょうがないんやけどな」

文句を言いつつも平子は楽しそうに笑い、またコーヒーを飲む。

おそらく現世に置いてきた仲間のことを言っているのだろう。雛森もその辺のことはすぐに察することができた。彼女は平子の横に座り込む。

「その方にも寝付きにくいとコーヒーをお願いするんですか?」

「あー、いや。そいつはな、勝手に持ってくんねん。飲めって。普通はホットミルクとか、生姜湯とか、なんか体があったまって眠れそうなもの淹れるやろ?」

「そう、ですね」

「そいつはちゃうねんなぁ。眠れへんのやったら、無理に眠らんと好きなだけ起きとけばええ言うて、わざわざコーヒー淹れよんねん。しかもクソまっずいやつをやで? ありえへんやろ」

 どこか懐かしそうに目を細めながら、先ほどと同じように平子は隊舎の屋根の向こう側に広がる夜空を見上げた。彼の視線の先にあるものは、三日月。いつもヘラヘラしていて軟派そうなわりに、その内面には深入りさせないように一線を引く平子は珍しく饒舌に語る。

「毎度、毎度、そうやって不味いコーヒー持ってくるからそれがいつの間にか当たり前になってしもうてなぁ。せやから桃が淹れてくれたコーヒーが余計美味く感じるわ」

 雛森には見せないようにわずかに俯き、顎のラインで切り揃えられた髪をカーテン代わりにして寂しげに笑った。


 そんなに昔のことでも無いはずなのに、もう遠い過去のような気がする。今日みたいに眠れない夜は文句を言い合いながらもあの子と一緒に不味いコーヒーを飲んで、肩を並べ夜空を眺めた。

“あの男”を討つことだけを目標としていたあの頃。自分たちにあの男を討ったあとの未来があるなんて考えてもいなかった。だからまさか自分がこうやってまた護廷に戻ってくることになるなど、夢にも思っていなかったのだ。

あの子とこうやって離れることになることも。

(どうしてんのやろ、ひよ里)

 強がりで、少しだけ泣き虫なあの子は、眠れなくて一人で夜空を眺めていないだろうか。

 一人で、あの不味いコーヒーを飲んでいないだろうか。

 一人で……。

 そんなことを思い始めると、もう駄目だった。


「それじゃ、私はあと少し見回りしたら、自室に戻りますね」

「おお、引き留めて悪かったな、ゆっくり休みや」

話も途切れ、自分がまだ隊舎内の見回りの途中であることを思い出した雛森は平子にそう声をかけ立ち上がると、引き留めてしまったことに、平子は申し訳なさそうに謝った。優しい副官は気にしないでくださいと笑いながら、ちゃっかりと釘をさす。

「明日は隊主会が朝一でありますよ。寝坊しないようにできるだけ早めに休んでくださいね」

「そやった。面倒くさぁ」

「面倒くさがらないでください。隊のみんなに示しがつきませんよ」

「桃、お前の言い方誰かを彷彿とさせるわ」

「それは隊長のせいだと思いますよ? 平子隊長といるとなんだか私もしっかりしなきゃって思えます」

「なんやそれ。そないオレ、頼りないんかいな」

「そんなことないですよ。これでも感謝してるんですよ」

 雛森はくすくす笑いを引っ込めて礼儀正しくお辞儀をした。

「それじゃ、失礼します」

「ん、おやすみ」

 いつも通りの笑い顔を作って手を振って見送る。彼女の華奢なうしろ姿が見えなくなったのを見計らうと、平子は黒染めの着物の袂から現世へと繋がる携帯を模した伝令神機を取り出した。

 こんな時間に電話してもあの子はもう寝ているかもしれない。電話に出てもらえないかもしれない。運よく出てもらえても、たぶん不機嫌だろう。だけどとにかく声が聴きたかった。どんな声でもいいから。あの子の声が。

はやる気持ちを抑えながら、慣れた手つきで目当ての番号を呼び出し、通話ボタンを押す。

3コールで出た。

「もしもしー。平子ですけど、猿柿サンの携帯ですかー?」

『……、真子か』


 あからさまにテンションの低い、けれど懐かしい声が平子の名前を呼ぶ。ただそれだけなのに頬が緩む。さっきまでの焦燥感が嘘のように収まった。

「そうですー。あなたの平子真子です―」

おどけて言えば、伝令神機の受話口の向こう側で舌打ちをする音。
『なんやねん、きしょいな。こないおそうに電話してきよって、うっとうしい。ちゅーかうざい』
 想像通り、ひよ里は不機嫌だった。なのに顔はだらしなく緩むばかり。
「そういわんと、ちょっと声が聞きたなりまして」
『うちは聞きたありませんでしたぁ』
「怒らんでもええやんけ」
『怒るわ、何時やと思うてんねん』
「さぁ、何時やったっけ?」

あほか! と思いっきり怒鳴られた。
『夜中の2時やぞ!』

「うそ? ほんまに?」

『そんなこと嘘ついてどないすんねん。ボケてんのか。どうせ明日も仕事あんねやろ?』

「うんー。朝一で隊主会が……」

『ますますアホやろが! うちに電話する暇があるんやったら早く寝てまえ、ボケが』

「なんやそれー。お前言うてたやんか。眠れへんかったら無理に寝んでもええ言うて」

『言うた。言うたけど、今と昔は事情が違うやろが。お前が寝過ごして隊主会に遅刻した日にはな、恥かくんは副官やねん! うちは何度恥をかいたことかッ!』

 そういえば、もうずいぶんと昔。ひよ里が副官をしていた頃。彼女の隊長――、今は現世で駄菓子屋を細々と営んでいる男はしょっちゅう隊主会に遅刻してきていた。はいわば常習犯で、ひよ里はいつもその男に説教していた気がする。懐かしさでまた口元が自然と綻ぶ。

「なぁ、ひよ里は寝てたん?」

『今、寝ようと思うてたとこや』

「じゃぁ、起きてたん?」

『まぁ、そういうこっちゃ』

「オレ、ちょっと寝れへんくって。すまんな」

『情けな』

ひよ里の口の悪さは相変わらずで。
「疲れすぎて眠られへんねんって。ちゅーかひよ里はなんでこない遅くまで起きてたん?」
『……』
「……もしかして、待ってた? オレのこと」
『待つか! このボケ! 自惚れんなハゲのくせに』
「自惚れてもないし、ちゅーかはげは余計やし、はげてへんし」
 顔を突き合わせて喋らないせいか、時々距離感を測りかねる。なんかムッとしてお互い無言になった。沈黙が落ちる。


ああ、こんなふうに時間を無駄に使いたいわけじゃない。話したいことは山のようにあるんだ。

副官が淹れてくれたコーヒーはひよ里と違って美味かったとか。お前がそうやって心配しなくても、副官はかわいい顔をしてなかなか手厳しいのだとか。でもビーサンで叩いてこないし、隊長にえらそうな口をきくこともないし、ちゃんと隊長のオレを立ててくれる。お前と違って優しいしようできた副官や、だとか。

だけどこんなことを言えば、またひよ里は怒ってしまうだろう。怒らせることばかり思いついてしまう自分自身に呆れて平子はついため息をついた。気持ちをコントロールすることには長けているはずなのに、ひよ里が関わると途端にうまくできない。空回りばかりしてしまう。どうしてこんなに上手くできないのだろう。他のことなら簡単なのに。


何か気の利いたことを言おうと、あーだとか、うーだとか、うめき声に似たような声を出しながら言葉を選んでいると、黙りこくったままだったひよ里が、思いついたように平子の名前を呼んだ。

『な、真子。そっち、お月さん出てんのか?』

「あ? ああ。うん。出てる。三日月や」

急にそんなことを尋ねられ、不思議に思うが、そんなこと現世側にいるひよ里は感じ取れないのだろう。こっちも出てるというので、そうかと伝令神機越しに頷いた。彼女も同じように夜空に浮かぶ月を見上げているのだろう。たぶん、一人きりで。

ひよ里はポツポツとまるで独り言のように呟く。

『月が、な』

「うん」

『綺麗やねん』

「そ、か」

 霊波を介して聞こえてくる音声が幽かに掠れているように思えたのは、気のせいだろうか。

『ほんま綺麗すぎるから、』

「うん」

『寝にくうてかなわんわ』

「ひよ里」

吐き出された言葉。それが平子の胸を狭くした。

声だけじゃ足りない。会いたくて、抱きしめたくて仕方がない。
 手を伸ばせば届く距離に居た、あの頃に戻りたいと思った。

此処に戻ると決めたのは自分自身のくせに。今すぐにでもここに呼び寄せたいと、彼女の気持ちを無視したようなことを思う自分は、なんて自分勝手なんだろう。


平子は目を閉じ自分の気持ちを押し殺す。

手にしている伝令神機を握りなおし、再び目を開けて一面に広がる夜の空を見上げた。三日月は雲に覆われることもなく変わらず綺麗なまま。


「こっちの月も綺麗ですよ。猿柿サン」


 この空も、月も、星さえも、あの子が見ているものとは違うけど。

 せめて、同じように夜空を見上げていたい。



お題提供 Made in Alice 様


こんなに月が綺麗な夜は君の声が聴きたくて。君に逢いたくて。



日記LOGを加筆修正。『月が綺麗ですね=I LOVE YOU』ということを某様から教えていただいたのでこうなりました。近距離恋愛もせつないですが、遠距離恋愛もやっぱりせつない(というか、せつなさの王道!)
平子さんの「誰かを彷彿とさせる」は、言わずもがな、あの方です。ネタにできるようになるまで二人ともまだ厳しいかもですがいつかはネタになるくらいまで昇華させられているといいな。
2012.05.20