猫の闇 あなたは、私の世界そのものでした。あなたさえ居てくだされば、私はよかったのです。 あなたのことを思い浮かべればどんな任務でも、たとえこの手がどれだけ汚れようとも、身体が汚れようとも、幸せでした。 そうです。あなたに仕え生きて死にゆくことこそが、私の唯一の幸福でした。 あなたに埋めてもらうことが出来なくなった洞からは、いつまでも絶えることなく雫が零れて落ちて行きます。 あなたなしでどうすれば、この洞は埋めることが出来ますか? 私はどうすればいいですか? 私の前から消えていなくなってしまうのなら、せめてそれだけでも教えてほしかった。 行燈の明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる夜一の褐色の膚は、しっとりと柔らかい。自分とは似ても似つかない優しく包み込むような夜一の女性らしい豊かな身体が、砕蜂はこのうえなく好きだ。この腕の中にいられることは、夢を見ているような気分にさせた。 砕蜂。 囁きながら夜一は砕蜂の身体の隅々までくちびるを落としていく。熱く火照った身体に這う指は、信じられないほどに冷たく、心地よかった。くちづけられるたびに、身体を指でなぞられるたびに砕蜂の白樺のように白く細い躯体は、応えるようにしなる。 夜一様。夜一様。 辛抱出来ずに夜一の腕にしがみつき、掠れた声で愛しい人の名をただひたすらに呼び続ける。自分のはしたなさに羞恥しながらも、夜一を見上げれば、少しだけ眉を寄せ哀しそうな、慈しむような、そのどちらともとれる表情をして微笑んでいた。おぬしはかわいらしいの。しみじみと呟きながら砕蜂のくちびるに優しくくちづける。あぁ、夜一様。抱きしめられ砕蜂は夜一の首筋に顔を埋める。その場所から微かに薫るのは、茉莉花の匂い。張りのある艶やかな黒髪が耳に当たりこそばゆい。 この幸福がいつまでも。未来永劫続けばいいのに。 夜一と膚を合わせる度に砕蜂は何度も祈った。 行為が終わると、布団の上で夜一は子猫のように砕蜂にじゃれつく。任務中の冷酷な表情とはまるで違い、無垢な子供のように可愛いらしい。高貴なお方に対してそんなふうに思ってしまう自分に叱咤しつつも、頬が緩んでしまうのを抑えることはできない。 (こんな夜一様を知っているのは私だけだ) 一瞬得意になるも、はたと思いだした。あの男がいた。十二番隊に行ってしまっても、夜一との親密さが変わらないあの男が。 「夜一様、どうして浦原喜助などとあんなにも親しいのです」 幼馴染じゃからの。夜一はくすりと笑って答える。 「おぬしは本当に喜助が嫌いなのじゃな」 「嫌いと言いますか、その」 「よいよい。合う、合わぬがあるからな。そなたが喜助のことを嫌いでも責めたりはせぬよ」 砕蜂は言い淀む。本当は、あの男に夜一のことを取られると思っているからだ。 それを見透かしたのか付け加えるように夜一は言った。安心しろと。 「あの男とは、何が合っても恋仲にはなりはせぬよ」 どうして、そう言い切れるのですか。 そう言おうとして砕蜂は言葉を飲み込んだ。あんなにも親しくて、固い信頼関係で結ばれている二人が、そうならない保証なんてどこにもない。恋仲になることはないと言い切れる夜一の言葉に安心できない。むしろ焦れてしまう。どうして。 たとえば今。敵に襲われたとして、夜一を護ることが出来るのは砕蜂だろう。あの男は今の夜一を護ることはきっと出来ない。すぐに駆けつけることさえ叶わないだろう。それほど夜一と浦原喜助という男の距離はあるはずなのに、繋がりを感じる。見えない確かなものを感じる。 あの男と夜一は幼馴染とか、男だとか女だとか、主従だとか、そういった括りにないのだろう。恋人よりも、肉親よりも深く堅い絆。これを魂の繋がりというのか。ならば砕蜂と夜一の繋がりは何なのか。もっと、もっと。確かな繋がりが欲しい。あの男との繋がりを越えるものを。でも。そんなものあるのか。 「約束してください、夜一様」 手を握った。夜一の手はいつものように柔らかく冷たい。 どれだけ身分知らずで、無礼なことを言っているのかは自分でもよくわかっていた。けれど、言わずにはいられない。 「砕蜂を置いてどこにも行かぬと。お願いです」 夜一は、一度きょとんとして、それから思い出したようにおかしそうに声を出して笑った。 どうして、笑うのですか。 「笑わないでください。砕蜂は本気です」 「すまぬ」 目を細め、砕蜂の黒髪に梳くように触れる。 「砕蜂は、ほんに可愛らしい娘じゃのう」 そんなふうに触らないでください。心臓が潰れそうになります。 「そのような約束をせずとも、私の居場所は此処しかありはせぬよ」 此処だけじゃよ。夜一は独り言めいた言葉を呟く。月と同じ色をした瞳は砕蜂では無くどこか遠いところを見つめていた。 ――ならば、どうしてそのような哀しそうな瞳をされるのですか。夜一様。 「そなたのようなものが、二番隊の長につくのが良いのだろうな」 夜一は眠りに完全に落ちる前、時々そんなことを言う。砕蜂には考えられない言葉だった。 「何をおっしゃられるのです。私など、ダメに決まっているではありませんか」 「何故、そう思う?」 「夜一様以外、誰もふさわしいモノなど居りはしません」 そうか? 目を閉じたまま、夜一は儚く笑う。 「私は、夜一様以外のものに仕えたいなどと思ったことはただの一度もないのです。ですから……、」 砕蜂が言い終わる前に、静かな寝息を立て夜一は眠ってしまった。 大丈夫です、夜一様。何も不安に思わないでください。砕蜂は貴方様のお役にたてるように励みます。始解はもう出来るようになりました。卍解だって、すぐにできるようになります。今以上にお役に立つことができるように。お傍にお仕えしても恥ずかしくないように努力をします。 だから、そんな寂しいことをおっしゃらないでください。お願いです。お願いですから。 夜一にこの想いは届いていたのだろうか。届いていると、いいのに。 終わりは突然だった。 それを聞いてから砕蜂はずっと落ちつかないでいた。ギリギリと指を噛み、気持ちをどうにかして落ちつけようとする。 あるはずがない。ありえない。まさかあの方が、矜持を、誇りを捨てようことなど。 私を置いてどこかへ行くなど、そんなこと――。 「砕蜂! 隊長見なかったか!?」 あわただしく声をかけてきたのは夜一の副官だった。 「夜一様? 見かけませんでしたが。どうかしたのですか」 「隊長が、やりやがった」 副官は吐き捨てるように言った。 こいつは何を言っているのだろうか。 「さすがにオレにも、どうにもできねぇ」 「何を、したのですか」 「浦原喜助……、十二番隊隊長と、鬼道長の逃走補助だ」 「まさか」 耳を疑った。 「オレだって、信じたかねぇよ」 大鬼道長の握菱鉄裁と、隊長の幼馴染の浦原喜助が今朝方、捕縛令状が出ているのは、お前も知っているだろう? はい。その二人がとんでもねぇことをやらかして、現世追放になっちまった。それは、いったい……。知らねぇよ。知ってたまるか、そんなこと。……、夜一様は、それで? 隊長はその二人の手助けをしちまいやがった。くそがっ。なにやってんだ、あの人は! かばいきれねぇ。 副官は拳を柱にぶつけた。ドクドクとなる心臓の音だけが聞こえる。目の前の副官は他にも何か言っているが、耳に入ってこない。何を言っているのかわからなかった。砕蜂はその場から逃げるようにして走りだす。呼びとめられた気がしたが、そんなもの関係ない。 そんなはずないあるはずないあの方が居なくなるなどありえないうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ。 溺れる者は藁をも縋る。砕蜂はやみくもに走り回り、隊主室を目指した。あそこに行けば、あの方が居ると思った。さっきの話は全部嘘で、隊主室の戸を開ければ、あの方は太陽のような笑顔を向けてくださる。きっと、きっとそうだ。 「夜一様――」 不安と、一抹の期待をもって開けた隊主室の中は、空っぽだった。 部屋の中には誰もおらずガランとしていて、持ち主の居なくなった椅子が所在なさげにそこにあるだけだった。 足場がガラガラと音をたてて崩れ去っていく。崩れ落ちそうになる身体を支えるために隊主室の扉に痛いぐらいの力を込めた。爪がはがれ、血が流れるかと思ったが、短く切りそろえているせいで、血が流れることも、剥がれることもなかった。泣くことさえもできなかった。 (浦原喜助をとったのですね。夜一様) 神のように崇拝し、敬愛した人の無様な末路と、置いて行かれた悔しさ。 そして。 胸を焼き焦がし覆い尽くさんばかりの嫉妬が、やがて砕蜂を支配していく。 夜一がいなくなったあとでも、世界は当たり前のように回っていた。 花は咲き、鳥は唄う。風は吹き、雲は流れる。雨が降り、雪が降り、月日は流れ、季節は巡る。まるで元から夜一など居なかったように。日常はただ過ぎていく。 こんな世界があることなど、砕蜂は知りたくもなかったのに。 夜一との世界さえあれば幸せだったのに。
初めてのGLでした。2012.04.27 |