沸点を越えてエクスタシィ
悦びを感じていた。砕蜂が読むように命じた何の面白味もない書類にただ目を通しそれを読みあげるという至極単純な作業。そんなことで極上のエクスタシィに浸っている。直接膚に触れ、情事を交わすことよりも遥かに心地が良いのは何故なのだろう。俗世的な性的快楽と比べることすら罪な気がする。 そこまで考えた所で大前田は、ああ、と思った。たぶん、この人の一部になれている気がするからだ。手や足という末端では無く、もっと中心の。目で、耳で、口で。 もしもこの人の心臓になることができるなら、どれだけの悦びを感じることができるのだろうか。 砕蜂が執務室で書類に目を通している時、特別な用事が無い限り大前田はそばに居るようにしている。居るように命じられてはいない。自ら望んでその場に居るのだ。はたから見れば、さぞや従順な副官にみえることだろう。けっしてそんなことはないのだが。 彼女は何も言わない。暇つぶしに煎餅でも食べていれば大変迷惑そうな瞳を向けられるが、それにもすぐに興味を失うだろう。きっと居ても居なくても構わないのだ。ただ、目の前に立ちふさがりさえしなければ。 ――立ちふさがるなら誰であろうと殺す。 人形のような顔に似合わない殺伐とした空気を砕蜂はその身に纏う。人を寄せ付けないように。 「次はこれを読め」 「これっすか? どれどれ」 2枚続きになっている書類だった。見向きをされることもなく雑に手渡されると、大前田は読む前にざっと書類に目を通し、重要な部分をピックアップしていく。一から十まで読まなくても、要点さえ押さえれば多少端折っても意味は通じるし、時間の短縮になるからだ。こういった作業を苦痛に感じることは無い。むしろ得意なほうだった。 次は声に出して読み上げる。出来るだけ聞き取りやすい声で丁寧に、けれどテンポよく読むように気を付ける。その間、砕蜂は読み上げる言葉に耳を傾けているのだ。まるで子守唄でも聞くように、うっとりと瞳を閉じて。 その瞬間が最高に堪らない。背筋がゾクゾクとする。なのに手は汗ばんで、口の中の唾液はあとからあとから湧いてくる。唾液は文章を読み上げるのにものすごく邪魔で、言葉を区切った所で空気を壊さないように極めて慎重に飲み込んだ。身体中が心臓になったように、熱くなって脈を打つ。沸騰するようだと思った。 長文は自分が読むことが慣例になってしまったのは、いつの頃のことだろう。大前田は古い記憶を呼び起こす。 砕蜂のことは副官になる前から知っていた。大前田の父親が二番隊の副隊長を務めていた時には、砕蜂はすでに隠密機動にいた。昔は笑うこともあったのに。昔を懐かしむように父親が砕蜂のことを話し聞かせてくれた時は、あの能面のような人も、昔は違ったのだなと思った。笑えばきっと可愛らしいのだろう。自分に向けられる笑顔なんて無いことはよくわかっているけれど、時々思い描いたりした。想像の中の彼女は、まるで少女のような笑顔を自分に向けてくれた。けれど、極上の快楽は与えてなんてくれない。 彼女の副官になって初めて気がついたことがあった。砕蜂は、長い文章を読むことが苦手なようだった。1枚だけの短めの文章はさほど苦にはならないらしいが、長文は内容をすべて読み、把握するまでにわりと時間がかかる。そのせいでいつも書類に目を通す時は難しい顔をしていた。世の中には目から入る文字の情報を頭の中で整理して理解をすることが苦手な人がいるらしい。彼女が果たしてそうなのかどうかは知らないし、特に重要とも思わないから(隠密機動にいる限りそのことは致命的ではないと思う)わからないが、とりあえず大変そうだから少し手を貸すつもりで、軽い気持ちで申し出た。 ――なんならオレが読みましょうか? と。 面白そうだからという気持ちも正直言うと半分あった。 彼女は、ムッとした顔をしてそれを無視していたが、気が変わったのか暫くして「読め」と命令してきた。頼るともいえるこの行為に、心なしか胸がざわついた。口の端でニヤリと笑ってから大前田はサラサラと読んでやった。初めて砕蜂より優位に立てたような気がしていた。 それに味をしめたのか、砕蜂は長文の書類は大前田に読むように命令をするようになった。始めは聞き取りやすいようになんて意識はしていなかった。たくさん書類がある時はとても面倒くさかったし、副隊長としての業務もあれば、隠密機動としての仕事もあるのだから当然と言えば当然だった。 けれど、ある時気がついたのだ。隊長が。砕蜂が。自分の声をじっと聞きいってることに。 あの時の血管の中の血液が一気に逆流するような感覚は今でも忘れられない。 黒いガラス玉の瞳に唐突に言われた。 ――貴様の声は良い。 僅かに釣り上げた薄く紅い唇から零れた言葉に、ドクンと心臓が鳴った。身体中が火がついたように熱くなった。切りそろえられた前髪の下にある濡れた瞳は、確かに大前田を映していた。胸の中心を射抜かれたような気がした。 とにかくその言葉が全てだった。大前田の何かを変えるにはじゅうぶんだった。普段の声はガサツで好かぬがな。と、皮肉ったような文句があとに付け加えられていたが、そんなものは耳に入らなかった。 この人の一部になりたい。 欲求は止まらなかった。まるで初めて恋をしたみたいな気持だった。 その日から今日まで繰り返されている。砕蜂に「読め」と命令されれば、出来るだけ聞き取りやすく、わかりやすく、丁寧に読みあげる。その度にあの感覚に浸れるのだ。至福の時間。 意識すればするほどに。砕蜂が聞きいってくれているのがわかれば、更に、もっと。 溺れるように、深く静かに。それでいて血が沸くように、熱く。
本当にこの人の一部になることができればいいのにと思う。 目になることができたなら、この人がいつも何を見ているのかわかるのに。この人にこの世界がどんなふうに映っているのか、痛みも哀しみも喜びも共有することができるかもしれない。 耳になることができたなら、いつも何を聴いているのかわかるのに。自分の声がどのように聞こえるかわかるのに。そうしたらもっと聞きとりやすく読むことができるだろう。 口になることができたなら、どういう食べ物が苦手で、どういうものが好きなのかきっと、よくわかる。休憩時間に出すお茶菓子は、今よりもっと彼女が気にいるものを出すことができるはずだ。 心臓になることができたなら、一緒に終わりを迎えることが出来るのに。それはどれだけ幸せなことなのだろう。その時、どれだけの快楽が得られるのだろう。 でも、そんなことは無理だとわかっている。 だからせめて、精神の奥底で繋がれるといい。身体の繋がりなんて、きっと無意味だから。 いつか来る『終わり』に怯えながら、 今だけは、この時間だけは、この人の一部であり続けたいと、ただ願う。 主従関係を突き詰めて考えるとある種の快感を得ることができるのかもしれないな、から始まったお話でした。(2012.04.15) |