大人になっても気持ちの表現が下手くそというのは、なんていうか残念だと思う。 ここ最近のひよ里は機嫌が悪かった。何かにつけては突っかかってきて、正直面倒臭い。原因が何かはなんとなく解っているけれど、あえて解らないふりをした。それが余計にひよ里を苛立たせることになったみたいだけど。 「毎度毎度ギャンギャン文句ばっかり言うてて疲れませんか? 若いゆうのはええですな、猿柿サン」 「うるさいねん。ひとのことは放っとけ。ハゲが」 もともとある眉間の皺を一層深くして睨まれた。オレの嫌みに反応しているらしい。わかりやすいことで。 地下の訓練場でオレたちは暇を持て余していた。オレたちと言ってもこの場に居るのはひよ里とオレと白だけで、後のみんなは買い出しに行っていたり、飯を作っていたり、上で何かしらしている。 少し離れたところにいる白が、またやってると言いたげな視線をオレの方に投げて、すぐに読んでいた雑誌に視線を落とす。この言い争いに興味を向けられないのは、たぶんいつものことだから。オレとひよ里の日常と化していることがよくわかる。 「ヒトのことハゲハゲ言うなっていつも言うてるやろ、どチビ。クソガキ。ツルンペタン」 「ツルンペタンはおどれの顔やろがっ! この草履顔が! ゾウリムシが! 子ども扱いしよって」 ゾウリムシはちょっと新しいかもしれないと、オレは分析してみる。ひよ里のボキャブラリーがまた一つ増えた。 「子どもやろ。あれイヤ、これイヤ、それイヤ。ただの駄々っ子やんけ」 「お前にうちのこととやかく言われたないねん! だまっとれ」 ボケハゲ言いながら襟首掴んで揺するひよ里の声があんまりにも良く通るので、頭の中がキンキンする。耳の中もこそばゆくなって、片方の穴に小指を突っ込んで穿った。 「そうやって、キーキーキャーキャー言うたってしゃーないやろ。発情中の猿かっちゅうねん」 「はぁー? ええ加減にせぇよ、いわすど。ハゲ真子」 イライラもそろそろ頂点らしい。 「ダレカサンところで毒抜きでもしてもろたらどうやぁ?」 「――ッ!」 ひよ里の琴線に触れてしまったようだ。無言のとび蹴りを超至近距離から顔面にくらった。思いっきりのけぞってドシャッという効果音と共に地面に倒れる。 「痛ァ。何さらすんじゃ、ボケ!」 さすがに痛くて目にじんわりと涙が滲む。鼻にまともに蹴りをくらったせいで、血でも出てやしないかと鼻の下を触って確認してみたが、とくに出てはいなかった。 起き上がるのも面倒くさい。倒されたまま痛がっていると、眦を釣り上げたひよ里が覗き込んできた。 「うちはお前が一番大っきらいや」 ひよ里は吐き捨てるように言う。 「なんべんも言わんでも知っとるわ」 「なんべんでも言わな、気ィすまんわッ」 「さよか、ほな、気ィすむまで言うとき。聞いとったるから。ほら、どうぞ」 大きな瞳がキリキリと睨む。オレは持っていたハンチングで顔を覆い、視線を遮って無視を決めこんだ。こいつが今どんな表情でいるのか手にとるようにわかる。拳を握りしめて、歯を噛みしめて、忌々しくみているのだろう。ほんとうにわかりやすい子だと思う。 しばらくして上から舌うちが聞こえ、踵を返して歩いてオレから離れて行く足音がした。瞳を閉じてその音に耳を澄ます。ザッザッと地面を蹴る音が響いた。 どこいくのー? と遠くで白がひよ里に問いかける。 「そ・と!!」 苛立った声を撒き散らしながらひよ里は地下から出て行った。完全に気配が無くなったのを確認してから、顔を覆っていたハンチングを頭の横に置く。目の前に広がるのは作り物の青い空。 ――あーあ。また嫌われてしもたなァ。 蹴られた鼻先は蹴られた時に皮がめくれたようで、空気に触れるとやたらヒリヒリと痛んだ。 「まーた、性懲りもなくひよ里いじめてたのか、こりねぇな」 緑色のジャージを着た、変な頭で(人のコトは余り言えないが)変なサングラスをかけた愛川羅武が、オレの頭元へ音もなくスッと現れた。たぶん一部始終をみていた白がこいつに告げ口をしたのだろう。あれからずっと地面に寝そべったままのオレの隣に、やれやれとため息交じりでどっかりと座る。 「急に現れるのやめてんかぁ。オレ、蚤の心臓やのにびびるやん」 「オメーほど心臓に毛が生えてるような、図太い神経のヤツ他にいんのかよ」 まぁ、否定はしない。図太いと言われれば、図太いかもしれない。 これから始まるだろう羅武のお説教を予感しながら、オレは素知らぬ顔をして指先にハンチングを引っ掛けてくるくると回した。ややあって、羅武が口を動かす。 「ひよ里いじめて面白いか」 前振りもなく非常に単刀直入だった。遠まわしの言い方じゃない分、誤魔化しがあまり聞かない。 「面白がってへんよ、人聞きの悪いこと言わんとってや、羅武。いっつもイライラしよるあいつに、あかんでって教えたっただけやで。あいつカルシュウム他のヤツより倍摂らせた方がええんちゃうの?」 小魚買うてこなな。ふざけて言うと、羅武に頭を殴られた。ここの仲間は、ひよ里には優しくてオレに容赦ない気がする。 「モノには言いかたっつーのがあるだろうが」 「えー、わっからへーん」 「ガキにはそれなりに言って聞かせてやれっての。」 「オレなりにちゃんと言い聞かせてるつもりやけど?」 「オメーのやってることは子どもじみたいじめじゃねぇか」 図星過ぎて否定も出来ない。 「しゃーないやろぉ? いじめたくもなんねんって、あいつみてたら」 「んなことするから喜助の所に行くんだろうが、」 「……、」 「今も、行ってんじゃねぇのか」 「ええんちゃうか? べつにぃ。仲よきことは美しきかなっちゅうやっちゃ」 ハンチングをくるくる手で弄び、おどける。羅武がため息をついた。 「お前、ひよ里が喜助んとこいくの、あんまよく思ってねぇだろ?」 その通りだ。 オレは押し黙る。痛いところをついてくるな、と思った。のろのろと身体を起こして、適当に袖についた土を払う。 「せやったらどないやっちゅうねん」 手を嗅ぐと、微かに土の匂いがした。 「あいつは俺よりも喜助を選んだんやって」 「選んだとか違うだろうが。もともとあいつらは上司と部下の関係じゃねぇか」 「今は違うやんけ」 自分でも驚くほど低い声が出た。サングラスをした羅武が眉を寄せてみ返してくるから、急ごしらえの笑顔を作る。口の端が引き攣った。 ひよ里は、母性愛だとか、父性愛のようなそういうものに飢えた子だった。力いっぱい拒絶するくせに、愛情を欲しがる子だった。あの子の周りにいる奴は、だいたい上手にその辺を掬いあげて接していたと思う。ひよ里が慕っていた、あの子の最初の隊長さんは、それは上手に接していた。 オレといえば、そういう類の感情が欠けているのか、上手くいかなかった。どうでもいい奴には取り繕った優しさを向けることは出来たけど、所詮は模造品で、本物ではない。ひよ里にだけはそんな風にはできなかった。 あとからひよ里の上司になった浦原喜助は、同じ部類のヤツみたいだった。親近感を覚えるほど。でも、あの男と、オレとの決定的な違いはひよ里に親のように接することが出来たこと。ちゃんと汲みとって、ひよ里の心を持っていった。 「……だからって大人のする態度じゃねぇよ」 「わかっとるわ。ええと年して、子どもやねん。オレの方が。なんとでも言うたって」 「また悪びれもせずに……」 「これでも自分のコトは結構冷静にみれてますよって。性格悪いことくらい百も承知や」 あの子は喜助に対して心を開いた。 気に入らなかった。 オレがいるのに。 オレの方がずっとそばにいたのに。 ずっと見ていたのに。 ふと、浦原喜助にいつか言われたことを思いだす。 『どうか、ひよ里サンに冷たくしないであげてください』 『優しくして欲しいだけなんです。あなたに』 『ひよ里サンは、あなたのことが――、』 ――なんでお前にそんなこと言われなあかんねん。 羅武が、なぁ、真子、と改まって名前を呼ぶ。 「ひよ里はお前のこと、本当はすきなんじゃねぇのか」 心臓がぐっと縮んだような気がした。 冷静さを装い、切りそろえられた前髪に手を差し入れて髪を梳く。サラサラと零れていく髪を上目づかいで眺めて、少しだけ考えてから答えた。 「さぁ、どうやろ」 「あいつがイライラしてる原因だって、お前が……えーっと、織姫ちゃんだっけ? あの子を初恋だとか、なんとか言ったからだろうが」 確かにそうかもしれない。けれど、それはみんなと同じように扱ってもらえなかったことへの不服だろう。 「ひよ里のこと嫌ってんのか?」 「そんなふうに見えるか?」 「はたから見るとな、時々そう思う」 「……、」 「本当のところは、どうなんだよ」 そんなもの、決まってる。 優しくできないのも、 冷たくするのも、 苛めてしまうのも、 かまうのも、なにもかもぜんぶぜんぶ、あの子が、 「好きやで」 ずっと前から、今だって。 好きで、大好きで、どうしようもなくて。 いつもいつも、あの子のことばかり考えてて、気をひきたくて、独り占めにしたくて仕方がない。 「オレ、たぶんおかしいねん。無理やり自分のもんにしてへんだけで」 幾らでも甘やかしてあげたくなるし、ぐちゃぐちゃに踏みにじりたくなる。 こんなものが恋だとか、愛だとかいうのなら、きっとそれは腐ってる。 「あかんやろ、こんなん」 乾いたイヤな笑いが零れた。 オレは立ち上がり、パンツについた土を払う。ハンチングを頭の上に置いてパンツのポケットに手を突っ込んだ。 「ひよ里が求めてるもんは、親のような愛情や。オレには与えられへんよ」 「ちがうだろ、そうじゃねぇだろ」 「何が?」 「口に出して言えばいいだけだろうが」 好きだと、伝えてやればいい。5秒で事足りるような簡単なことがなんでできないのか。 そうだと思う。だけど、だからこそ出来ない。 「イヤですー」 足癖悪く、土をいじる。円を描いて踏み消すと砂埃が舞った。 「はぁ?」 「オレ、卑怯者やし、自分だけ損をするとかイヤやもん」 「損するってなんだそりゃ。ガキかよ」 「言うたやん、オレのが子どもやって」 肩をすくめておどけてみせた。羅武は盛大にため息をつく。 「怖いんだよ、お前は」 どうしようもねぇな、と羅武が呆れていた。 本当に、どうしようもない。 「外、出てくるわ」 くるりと踵を返して羅武に背を向ける。 「ついでに迎えに行ってやれ」 「気が向いたらなァ。嫌がれるかもしれへんしィ」 オレは笑って答えて、のんびりと地下を出た。あれ以上羅武に何か言われることは無かった。 外にでれば、はちみつ色に染まった空に、薄雲がぷかぷか浮かんでいた。橋の間に立って空と同じ色に染まった川を眺める。排気ガスの匂いで鼻の下がこそばゆくて、指を当てて擦ると、皮が剥けたところがまだヒリヒリと痛む。橋の柵に手を置いて、おでこをくっつけた。 独りになれば、考えるのはあの子のことばかりだった。 優しくしたくて、でもうまくできなくて。 振り向いて欲しいだけなのに、怒らせてばかりで。 それなのに好きだと素直になることも、諦めることもできなかった。 行き場を無くしたこの想いを、いっそこの川に投げ捨てることができれば、もう少しあの子に優しくしてあげられるのだろうか。
大人になっても好きの表現が上手くいかないと、けっこうドンずまりになりますよね、っていう。 2012.04.5 |