1 アイヲ ウタウ トリ
あれからー
あれから幾日が過ぎ、月が流れ、年を重ねただろうか。
「好きや」
普段なら絶対にそんな言葉を言うはずない小さな女の子が、今、すぐ傍にいる真子の髪をそっとすかしながら囁くようにつぶやく。
赤子をあやす母のように。
兄を慕う妹のように。
弟を想う姉のように。
友人のように。
恋人のように。
妻のように。
「好きや」
あの子がつぶやくその言葉は、沢山の意味を持っていることを知っている。
最初の1,2年はとにかく死に物狂いだったのを覚えている。
アレに虚化実験の材料とされた平子真子達と、虚化実験の汚名を着せられた浦原喜助達は現世へと逃げるよう慣れ親しんだあの場所を離れることしかできなかった。
喜助の造ったあの義鎧は急ごしらえだったがとてもよくできた代物だった。
魂魄によく馴染み、虚化さえ解くことが出来ればアレともう一度戦うことは可能だろう。そう思っていた。
しかし、虚化の進行を食い止めることはできたが、完全に解除することは出来なかった。
なら、どうする?
誰ともなくみんな分かっていた。
解除できないならば、自らが内なる虚を制御するしかない。
冷静でいなければ喰われてしまう恐怖とみんな対峙し、制御する方法をもがきあがき何とか見つけた。
それは死神としての自分達との永遠の決別でもあった。
仲間の中にはひよ里もいた。
まだ幼いあの子は、小さな体でみんなには悟られないようにと、うち震えていた。
虚化の制御に一番手こずったのもあの子だった。無理もなかった。
仲間であった真子を自らの手で深く切りつけてしまったのだ。意識はわずかに残っていたのだろう。
だけど、自分の身体であるはずなのに制御もできなかった。
それは、その時はどうしようもないことで。
でも、また同じことをしてしまうかもしれないという恐怖がきっとあった。
あの子はとても気の強い子で、口では辛辣な言葉を吐くけれど、本当は純粋で仲間想いの優しい子だったから。
守ってやりたいと思う存在だった。
けれど。
俺はあの子の傍にいながらあの時何が出来ただろうか?
「お前は大丈夫や」そう言いながらほんの少しだけ震えた小さい手を握ってやるくらいしか出来なかった。
死神の力を持っていようが、虚の力を制御しようが、俺は無力だった。
「好きや」
目の前にいる小さな女の子の口からこぼれる。
髪をすいていた手は、骨ばった真子の手を優しく包む。
大丈夫だと言っているのだ。
「好きや」
釣り目がちの目を伏せてつぶやく。
長くてきれいなまつ毛。
怖くないと言っているのだ。
その子をただただ見つめるだけ。
俺は一体どんな顔をしてるのだろうか?
俺はこの子の瞳にどんな風に映っているのだろうか?
胸の奥の方にある暗くてドロドロとした醜いモノは、この子の言葉でゆっくりと洗い流されていく。
この子に「好きや」と囁かれるたびに、ひどく安心し、許された気になり、
ほんの少しだけ胸の奥が甘くしびれ、苦しくなるのだ。
現世に来て何年が過ぎたことだったろうか。
確か虚化保持訓練が始また年のあの日だったと思う。
真子の中で何か均衡がとれなくなっていた。
いや、元からとれていなかったんだろう。
最初の頃は生へ執着することで見ないふりをしてきた。
次は、虚を制御することで。
だけど気がついた時には遅かった。歯車のようなものがガラガラと音を立ててかみ合わなくなっていった。
この状況を引き起こした張本人は誰やーーーーーーーーー?
闇の中で自分と同じ声色をしたモノが氷りのようにささやく。
耳をふさいで、目を閉じても、あの日、あの場所であったことは、鮮明に蘇ってくる。
アレには何か底知れぬ恐ろしいものがある。
放っておいたら、きっと何かをしでかす。
だから手元に置いておいた。よくわかるように監視するために。
監視されていたのは真子の方だった。
手元にアレを置いて監視していた気でいた俺はひどく滑稽で。
仲間を巻き込んでしまった。あのまだ幼い女の子まで。
監視なんてしていなで、すぐに殺っていたら。
憎悪。嫌悪。後悔。
襲ってくるのは負の感情ばかり。
この状況を引き起こした張本人は誰やーーーーーーーーー?
目に飛び込んできたのは、あの日、あの夜。
這いつくばったままアレを見上げた時に視界の片隅に映った、欠けたあの月によく似ていた。
ーーーーーーーーあぁ、俺のせいやーーーーーーーーー
気がつけば、当面の住処としていた古小屋を離れ、裏の林の中を素足のまま歩いていた。
自分の脚のはずなのに、思うように動かない。
思考はうまく働かず、ぼんやりとしていた。
「真子?」
不意に聞こえてきたのはひよ里の声だった。
「そこに居てるンは真子やろ?」
いつものような威勢の良い声ではなかった。
不思議そうに、不安そうに。
声が上擦って聞こえたのは聞き間違いではないのだろう。
カサカサと膝まである草をかき分け、ゆっくりと近づいてくる。
「こない夜中に一人でほっつき歩きよって、一体どないしたんーーーーー」
やれやれと、面倒くさげに話していたひよ里は急に息をのんだ。
真子は声がした方にゆっくりと顔を向ける。
ぼやける景色の中で、ひよ里の姿がやけに鮮明に目に映った。
さっきまで霧の中に居たような頭の中が妙にシンと冴えわたる。
「なんや。ひよ里かァ」
いつものように感情をヘラヘラとした顔の下に隠して、ふざけた調子で目線の先にいる険しげな顔をした女の子に話しかけたーーーーつもりだった。
きっとすごくひどい顔をしていたんだろう。
ひどい声をしていたんだろう。
いつも眉間にしわを寄せて強い目をした女の子の顔がくしゃっと一瞬だけゆがみ、少しだけ悲しそうな愛しそうな今まで見たことのない顔に変わった。
この子のこんな顔は知らない。
「真子」
暗闇に吸い込まれるような、静かな声で名前を呼ばれた。
すぅっと、細い幼い白い腕を真子に向けて伸ばす。
「真子、こっちにおいで」
まるで小さな子どもに喋りかけるように。
自分よりもうんと背の高い真子に向けて優しく言う。
その言葉に吸い寄せられるように、ひよ里の方へということの利かない脚を無理やり動かす。
ようやく小さな女の子の目の前にたつと、急に脚の力が抜けた感覚がして、膝を折る。
丁度同じくらいの目線になった。
ひよ里の細い手が真子の頭を撫でる。
赤子をあやすように撫でる。
「ひよ・・・里・・・」
思わず名前を呼ぶ。
それに応えるように、頭を撫でるのをやめる。代わりに、そっと静かに抱きしめられた。
ザワザワと胸の中がざわつく。
腹の底からこみ上げてくるどす黒く暗いモノ。
ーーーーーーあかん。
そう思った。
抱きしめてくれている細い腕をつかみ、力を込めて自分から引き離そうとした。
「好きや」
ひよ里は小さくつぶやいた。
その一言で不思議なほど手からは力が抜けた。
「好きや」
本来なら愛を唄うだろうその言葉は、何故か真子には違って聞こえる。
大丈夫だと言っている。
ここに居てもいいと言っている。
おずおずと細い腰に手をまわす。縋るように。
「好きや」
優しい雨のように降り注ぐ。
静かに洗い流される黒い感情。
気がつくと、真子の頬に暖かい滴が伝っていた。
嗚咽がもれていた。
腰にまわした手に力が入る。
肩が震えた。
大きな男が小さな女の子に縋り、泣く、この姿は、なんと滑稽なんだろうか。
なんと、哀しいものだろうか。
だけれど、この時の真子にはひよ里に許しを請うように掻き抱いて縋ることでしか、自分を保つ術がなかった。
追い詰められ過ぎていたのだ。
いつの間にか暗かった空は白み始めた。
「朝やで」耳元で優しく囁かれた。
「みんなントコ帰るで」小さな手が真子の金色のサラサラの長い髪をなでた。
促されるままに、真子はひよ里の身体から離れた。
離れると、ひよ里の顔があった。少し目が赤く、頬が濡れていた。
目が合うと、少し哀しげにアホと言って額を叩かれた。
許されたような気がした。
それと同時に、
この子をこの手で汚すような真似だけは絶対に出来ないと強く思った。
次の年も、その次の年も。
決まってあの日だけは、保っていたバランスが崩れる。
そんな日は気がつけば必ずひよ里が傍にいるようになった。
あの時のように、子どもをあやす母親のようにただ傍にいた。
ひどく安心した。
いつだったか、聞いたことがある。
どうしてあの時だけは「好きや」というのかと。
どうしてかウチにもようわからへん。ただ、口をついて出てくんねん。
呪文みたいなもんやろか。どこか遠くを見ながらそう言っていた。
嬉しくて、悲しかった。
この子に映った俺は、捨て猫のような感じなんだろう。
可哀想で、放っておけない。
それでもよかった。
成長を止めしまったこの子は、真子の過ちの証。
守ってやりたいと思っていた子は、知らぬ間に希望のような、哀しいまでに神々しく尊い存在になっていた。
手が届きそうで、手が届かないものへと。
月の光がうっすらと差し込む窓のある部屋に、ふたりは居た。
隅に追いやられたベッドの上で、ひよ里は無機質な壁にもたれ、真子はそのわずかに膨らんで柔らかい胸に頭を預けている。ゆりかごの中にいるように居心地がよかった。
毎年・・・というと可笑しいが、あの日だけはこうやって過ごすことがまるで神聖な儀式のようになっていた。
でも、この日はひよ里の様子がいつもと少しだけ違っていた。
真子も何かおかしいと思うのだが、どう言えばいいのか答えを見つけられずにいた。
「なぁ、真子」
真子のおかっぱの金色の髪をすく手を止めて、ひよ里は喋り始めた。
「ウチ・・・」
何を伝えたいのだろう?真子は黙ったまま話しに耳を傾ける。
未だあの日はどうしてもバランスが崩れてしまうが、昔ほど取り乱すこともなくなった。
静かに聞くことができた。
「身体はこないにガキのまんまや」投げやりな台詞。
本来なら、もう十分に大人の女性の体つきになっていても良いはずなのに。
あの日から成長を止めてしまっている。罪の印。
「成長したンは中身くらいか、まぁ、言うても大したことあらへんけどな・・・」
はぁと、深い息を吐く。
「なぁ、真子」
不意にその顔はとても苦しげに歪む。
「まだ足りひんのか?」
「・・・ひよ里?」
「お前、なんやウチを偉いエエモンみたァに思っとるみたいやけど、そんなんちゃうで?」
「・・・」
悔しそうに八重歯で下唇をかみしめる。
「こない幼稚な成りやけどな、悲しいけど、浅ましい女やねん。ただのな」
目にはじんわりと涙を浮かべて。
「お前は、ずっと辛そうや」
ウチを見る目が辛そうで、ほんで、手ぇの届かんもんと思ってる。
「ひよ里・・・」
どう言葉をかけていいのかわからなかった。
「まだ・・・まだ、好きやってあんたに言わな・・・、届かへんのか?」
絞り出した声は震えている。
「まだ、お前の思うとるようなエエモンのようにしといた方がええんかな?」
ーーわかってん。
アレの策略に気ぃついていながら、先手打たんかったどころかみんなを巻き込んでしもうたと、未だに悔いとんやろ?
せやけど、許されたいわけでもないし、責められたいわけでもない。
かわりに、辛いこと、きついこと、一番にやって、みんなをまとめようって。
それが、みんなに対してのせめてもの罪滅ぼしやって。
みんなもわかってるけど口にはださへん。謝られたって「お前のせいじゃない」って言うやろし、責めもせん。
ほんでも、自分自身がやっぱり許せれへんのや。せやから、こないなるまで自分で追い詰める。
一本すぅっと線引いて、これ以上踏み込ませんようにして。真子が壊れてもうたら、それで終いやないか。
「ウチは、そんなん嫌や」
苦しげな低い声で言った。
「ひよ里・・・」
「お前は、ほんまに阿呆や」
「ひよ里、なんでーーー」
そんなつらそうにすんねや?
「まだ、わからんへんのか?」
なして好きやって言ってたと、ずっと言い続けたと思ってん。
「ーーーお前のことが好きやないとよう言われへんに決まってるやろ?」
ひよ里の目からひとつ、滴が零れた。
胸の奥がぎゅっとつかまれて気がして息苦しくなる。
「俺は・・・、お前に好いてもらえるような人間とちゃう」
やっと絞り出したのにこんな情けない言葉で。
「阿呆、そないなことは、うちが決めることや」
「−−−しゃあかて・・・」
「お前がよーけ背中にしょいこんでしもたモンを、ほんの少しでエエよ。ウチわけてや、真子」
怖くて望めなかった言葉を、あっさりとこの子が口にするものだから。
気がつくと、華奢な小さな身体を抱いていた。
嬉しかった。
嬉しくて、嬉しくて、そして、恐ろしい。
「そんなん、したら、俺・・・、お前のこと」
「・・・」
「汚してまうかもしれん」
めちゃくちゃにしてしまうかもしれん。
傷つけてしまうかもしれん。
なのにどうして、
「ウチ、汚されたってかまへんよ?」
簡単にそう言えるの?
「言うたやろ?好きやって」
ーーーーーーーひよ里・・・。
「お前がウチのことそう思てないのもわかっとる」
「それは・・・」
「なんや、わからんけど、母親・・・みたいな、そんな風に思ってんやろ」
そんなんと違う。
そんなんと・・・、ただ、俺はーーーー・・。
「それで、ええ。ウチのこと、汚したくなったら汚してまえばええよ」
寂しげに、涙のたまった瞳で薄く笑う。
「ほんでも、今みたいなンは、もうつらいねん。あんな風にしか出来ひん自分も嫌やねん。辛い顔して、それやのに何も言わへんお前をみるんも嫌やねん」
薄く笑っていたはずのそばかすの散ったこの子顔がみるみる涙で濡れていった。
「気いついたら、知らんうちにどこか行ってまうんやないやろかって。恐ろしゅうて・・・」
ごめん、ごめんと謝った。
本当は、ずっとあのまま、ぬるま湯に浸かってるみたいに。子どもをあやすようにしていればいいと思っていた。
それで、真子がいつもの様に戻れるのならそれでいいと。
でも、いつまでも真子と同じ目線に立てない自分が辛くなってしまったと。ごめん、ごめんな。
そして、喋りながら気がついたように、ぽつりといった。
「ああ、ウチ、ずっと前からお前が欲しいと思うてたんやわ」
濡れた瞳はまっすぐと、真子の目を射抜いた。
「な、浅ましい女やろ?うちは」
哀しげにふっと笑い、そっと、冷たい真子の頬に小さな手を添える。
その手は、震えていた。
「欲の深い、ただの女や」目を伏せて寂しげに。
真子は震えたその手を静かに握った。
空いているもう片方の手で、ひよ里の頬に流れた涙をぬぐった。
「・・・真子?」
思ってもいなかった真子の行為に、涙をためた大きな目がわずかに動揺で揺れた。
「大事・・・なんや」
絞り出すように言った。
ひよ里の手を握った手が思わず震えた。
「大事すぎて、どうすればええんか、ようわからんなってもうてん」
ずうっとーーー、せんも前から護ってやりたいと思う女の子やった。
愛おしいと思う唯一の子やったのに。
でも、ちゃんと護ってやれんかった。羽を捥いで飛べない鳥のようにしてしまったのは俺や。
ひよ里を見る度に、自身の過ちを突き付けられている気いがしてた。
それやのに、お前この手は、言葉は、底抜けに優しくて。ほんで、温くて。
情けないあんな姿の俺を見て、なぁんも言わんと抱きとめてくれて。
嬉しくて、なんや許されたように思って。
そしたらもっと大事なもんになってしもて、こうやってひよ里に触れることが罪なような気がした。
俺みたいなンが、この子を好きだと想うことさえも罪な気がして。
本当に大切なことに心を閉じて、耳をふさいで、目を閉じた。
「す・・・きや、ひよ里」
ようやく出た、心の奥を焦がすような言葉は、こみ上げてきた涙と混じった。
「好きやったんや」
この愛しい子は、ずっと、ずっと、どうしようもない俺を待っててくれていたんだと、やっと理解した。
「ごめん、な。ひよ里。ごめんな」
「なん・・・で、謝るんや、ハゲッ」
しゃくりあげて泣き、真子の胸を弱弱しく何度も叩く。
涙に濡れてしまったそばかすのある頬にそっとくちづけ、細い体を抱きしめた。
弱弱しく伸びた華奢な腕を背中で感じた。互いの額をそっとくっつける。
「泣かんといてや、ひよ里」
「アホ、お前の方がきったない顔して泣いてるやないか」
言いあてられて、
「せやな・・・」
そう返すしか出来ず、
鼻水と、涙と、唾液でボロボロだろう顔から思わず小さな笑みが零れた。
それを見たひよ里は、嬉しそうにやっぱり顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、
「やっと、笑うた」と囁いた。
あれからまた、何年も時が流れました。
生きる為に、運命に抗い、弱さと悲しみは、笑顔の下に隠しました。
あの日が来るとまだ、心は乱れます。自分を責めてしまいます。
暗闇に捕らわれそうになります。
未だに後悔は消えません。きっと一生背負って行くものなのでしょう。
けれども、私の傍らにあの子が居る限り、私はどんな罰にも耐えることが出来るでしょう。
未だ少女のようなあの子は、私の過ちの証です。
羽を捥がれ、空へ帰ることも叶わなくなった可哀想な鳥を、この手でさらに汚しました。
甘く呻きながらも変わることなく紡がれる、あの言葉に、未だに縋る醜い男です。
だからどうか、あの子を私から取り上げないでください。
あの子を取り上げられた私は、生きた、ただの屍となるしかないでしょう。
狂おしいほどに愛しいあの子は、哀しいほどに私の希望で、生きる糧なのですからーーーーーーーーー。
<<終>>
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